レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2013/11/26
- 登録日時
- 2014/06/21 00:30
- 更新日時
- 2024/03/30 00:36
- 管理番号
- M14011117166292
- 質問
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以前に玉野市を走っていた備南電鉄について知りたい。
- 回答
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・『玉野市史』(資料①)の巻末年表には、1953(昭和28)年4月に「宇野、玉間に備南電鉄はしる」とある。
また、「水島の開発と備南電鉄」の項では、備南電気鉄道株式会社の創設について記載されている。「この電車は、星島二郎を代表取締役とした、資本金3,200万円の会社で、玉野市、三井造船、三井金属などを中心とし、233名の出資によって運行を開始したが、建設当時予定したほどの収益はあがらなかった」とある。
経営難により市営に移管されたが、依然として苦しい経営であったことについてもふれている。
・『玉野市電気鉄道』(資料②)には、備南電鉄の開通から市営移管までについて、さらに詳細な記述がある。また、写真も掲載されている。
ここでは、「県出身代議士星島二郎氏を社長とする資本金2千万円の備南電気鉄道株式会社が、1950(昭和25)年4月1日設立」とあり、資料①の記載と若干違う。
「宇野~水島間31.4kmの敷設認可を得て、第1期工事として、引込線を利用、宇野~玉(のち三井造船所駅)間3.5kmを着工、3か年と総工費6千万円を要し、難産の末1953(昭和28)年4月5日にようやく開通した。資金難のためたびたびで工事が中断、玉野市と三井造船所から大きな援助を受けている。開通後も経営は苦しく、赤字対策として、1955(昭和30)年10月1日に繁華街玉橋(開通後玉駅)まで0.2kmを延長したが、依然経営難は続き1956(昭和31)年3月24日会社は解散し、事業を市へ移管、玉野市電気鉄道となった。」とある。
なお、玉野市電気鉄道になってからも経営難は続き、動力変更など経費節減を行ったが、1972(昭和47)年3月31日限りで営業廃止となったことについても記載がある。
・同様のことが『私の街を走った電車』(資料③)や『レイル No.29 私鉄紀行/瀬戸の駅から 上』(資料④)にも記載があり、写真も掲載されている。
・『760号と玉野市電の軌跡』(資料⑤)には、新聞に載った備南電鉄開業の記事が掲載されている。
・『玉野50年市民の証言から』(資料⑥)には、資料②,③の著者である橋本正夫氏が、備南電鉄の市営移管について玉野市議会で審議する様子を述べた言葉が掲載されている。
・『目で見る岡山・玉野の100年』(資料⑦)にも、“消えた備南環状ルート”という項目の中で、備南電鉄についてふれられている。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 鉄道運輸 (686 9版)
- 参考資料
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①玉野市史編纂委員会編『玉野市史』臨川書店,1987,18p, 858p. 参照はp.798-799,845.
②橋本正夫『玉野市電気鉄道』ネコ・パブリッシング,2008,45p.参照はp.6-35.
③橋本正夫『私の街を走った電車』〔玉野〕橋本正夫,1987,120p. 参照はp.1-66,103-119.
④湯口徹『レイル No.29 私鉄紀行/瀬戸の駅から 上』エリエイ出版部プレス・アイゼンバーン,1992,122p. 参照はp.68-75.
⑤『760号と玉野市電の軌跡』玉野 玉野市電保存会,2007,35p.参照はp.16-21.
⑥山陽新聞玉野支社編『玉野50年 市民の証言から』岡山 山陽新聞社,1990,213p. 参照はp.72-75
⑦『目で見る岡山・玉野の100年』名古屋 郷土出版社,2001,146p. 参照はp.122.
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①玉野市史編纂委員会編『玉野市史』臨川書店,1987,18p, 858p. 参照はp.798-799,845.
- キーワード
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- 備南電気鉄道株式会社
- 備南電鉄
- 玉野市電気鉄道
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- M2014011117144166292
- 調査種別
- 内容種別
- 質問者区分
- 全年齢
- 登録番号
- 1000154812