レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2011/12/23
- 登録日時
- 2012/03/15 02:00
- 更新日時
- 2012/06/03 16:24
- 管理番号
- 埼久-2011-096
- 質問
-
解決
徳川家康が江戸に幕府を開く頃に、堺・近江・京からたくさんの商人が移住している。
幕府の政権がまだ不安定な時期になぜ商業拠点を江戸に移したのか経緯を知りたい。
- 回答
-
関連記述のある以下の資料を紹介する。
1 近世史関係資料
『近世史ハンドブック』
p284-285「家康政権になると、これら秀吉系の商人資本は排除され、家康の戦国時代からの取引のある豪商がクローズアップされてくる。すなわち、茶屋四郎次郎・末吉孫佐衛門・角倉了以など」とあり。また、文献として『日本人物史大系 3』(中田易直「近世初頭の貿易商人の性格」)を紹介。
『日本人物史大系 3 近世』
茶屋四郎次郎・角倉了以・角倉・末吉型の朱印船貿易家と家康との関係については記述があり、いずれも家康に協力したことがわかるが、商業拠点を移した経緯については詳述されていない。
p105-112「茶屋四郎次郎」の項あり。
p112-119「角倉と末吉」の項あり。
『江戸幕府の権力構造』
「第2章 第3節 江戸城下町の建設と流通統制」(p260-272)の項に以下の記述あり。
p266 2行目~「これら(その文章の前で述べられている樽屋に江戸町年寄や東三十三ヶ国の枡の取締り、喜多村は関八州之町人連雀商札座、のちに長崎糸割符年寄の特権を与えられた、など)の措置は、いずれも徳川氏に親近した士豪的商人に特権を与えて、かれらを新領土の流通統制に当たらせようとする意図にもとづくもので、基本的には五カ国時代の政策の継承であった。」
p269 2行目「これら(この文章の前に述べられている紺屋頭、鉄炮頭、研屋頭などいくつか例示されている)の職人頭は、三年寄などの商人頭とともに、町割を通じて広大な屋敷地を割渡され、地子を免除され、またいろいろな特権を与えられた代償として、伝馬役や諸商・諸職の軍役を請け負った。(中略)このように天正・文禄の江戸町割と軍役請負人としての特権町人の創出は、いうまでもなく徳川氏の主城としての江戸を、領国の政治的・経済的諸関係の完全な結節点に仕立てるための措置であった。それはまた徳川氏のほかに主城に駐屯する家臣団の生活の再生産を保証するための町割であった。」
「第4章 第2節 都市・流通政策」(p547-598)に以下の記述あり。
p552 13行目「このように江戸の商業は、城郭・武家住宅など主として軍事的な性格をもつ建築資材の流通を重要な契機として興起したといってよいが、やがて人口増加につれて生活必需品を扱う都市商業が盛んになった。それは江戸商業の草分けともいうべき三河・遠江及び関東各地から流入した商人につぎ、伊勢商人・近江商人の江戸進出に一つの象徴を見出すのであり、中世いらいの特権的豪商の没落に代わる新興問屋商人層の擡頭がそれである。中世末期に朱印船貿易や国内の特権的商品流通に従事して巨富を積んだ都市豪商は、戦国大名や統一政権に親近し、身辺の諸事御用を勤めるいっぽう、兵器・弾薬や軍需物資の調達・輸送から情報蒐集・講和の内使などにいたるまで重要な役割を果したが、幕府の成立とともに、公儀呉服あるいは金座頭取として将軍に近侍したり、幕吏化して代官となったりした。」
『首都江戸の誕生 大江戸はいかにして造られたのか』
p94-95「職人統制」の項に以下の記述あり。
「家康は、江戸城や家臣たちの生活を支えるために、商人や職人を各地から集めた。(中略)これら職人頭は、三年寄などの商人頭とともに 町割の際に広大な屋敷地を割り渡され、地子を免除され、さまざまな特権を与えられ、代償として諸商・諸職の軍役を請け負った。以上のように、入部直後の江戸の市政(さらには関東支配)は、五か国時代以来の土豪や小田原北条時代の特権商人などによって担われたのである。」
『日本の歴史 13 江戸開府』
p125「だいたい近世の城下町というのは、その地域の経済的な発展の結果として成立してきた都市ではなく、政治・軍事上の見地から、いわばその周辺の経済的条件とはあまり関係なく建設されたところが多い。江戸はそのもっともいちじるしい例であった。」
p127「埋め立てた市街地は商業を発達させるため、願い出た町人に割り与えた。しかしはじめのうちはあまり希望者は多くなかったらしい。(中略)そこで小田原や関東各地から商人を勧誘したのをはじめ、徳川氏の旧領東海諸国からの移住者を優遇した。」
『日本歴史シリーズ11 江戸開府』
p116-119「家康の江戸入り」(「江戸の町づくり」内藤昌著 中)に江戸の町づくりの経過の記述あり。
『日本の歴史 10 江戸開府』
p79「商工業を盛んにするため、商人や職人の移住を歓迎し、諸国から集まってきた町人たちには、願いのままに土地を割りあたえている。」
『東京百科事典』
p54「江戸に集まった商人や職人たちは、幕府の御用をつとめるかわりに町屋敷を拝領したり、さまざまな特権を得ていた。江戸は「武家の町」と称するほど消費都市としての性格を強め、御用達の町として商業活動も活発になった。」
『東京都の歴史』(竹内誠〔ほか〕著 山川出版社 1997)
p151「初期の江戸町人には、旧領地から家康にしたがってきたもの、旧来の家康との関係により、京都・伏見・堺など畿内から家康によびよせられたもの、新興都市江戸に可能性を求めて来住したもの、北条氏時代から江戸に居住していたものなど、さまざまであった。」
p151「本町の町割を担当したのは、(中略)京都の貿易商人であった茶屋四郎次郎や(中略)も関与したといい(後略)」
p152「このほかにも、江戸城を始め武士の消費生活をささえるために商人・職人が集められ、商人頭・職人頭に一町から数町規模の屋敷地があたえられ、そのもとに紺屋町・(中略)などの同職集住の町が形成され(後略)」
p153「江戸の発展を期待して来住する商人も増加していった。徳川氏の旧領地である駿河を始めとして、すでに全国的に活発な商業活動をしていた伊勢・近江商人なども進出してきた。」
『講座日本の封建都市 1 総説篇』
p243「三河以来の御用商人や京・堺の商職人を招き、御用商人を頭とする各町に町座特権を与えた。
『江戸幕府 その実力者たち 上』
p99-122 「後藤庄三郎と茶屋四郎次郎」の項あり。
後藤庄三郎(1571-1625):京都の角倉、後藤、茶屋は京都の三長者と言われる程の商人資本家。
p104-「家康が秀吉のために関東に移封されて(略)後藤徳乗(庄三郎は徳乗の手代という説あり)に命じて江戸に下るよううながした。しかし徳乗は当時江戸のような田舎に出向くことを好まず、病気と称して代人として手代の橋本庄三郎なる人物を江戸に向かせたのであって(略)」その後貨幣鋳造などで成功した庄三郎と家康との関係の記述あり。
『日本史探訪 6』(海音寺潮五郎〔ほか〕著 角川書店 1972)
p23-42「角倉了以」の項あり。
p32-33保津川開鑿を思いついた了以が「長男与一を江戸に送り、幕府に保津川開鑿を献策した」とあり。工事着手は1606年。以降、幕府の命により富士川、天竜川の開鑿に乗り出す記述あり。
p43-62「三井高利」の項あり。
p50 江戸で都合が良かったことが挙げられている。ただし、元禄時代のこと。
「紀伊国屋文左衛門であるとか、奈良屋茂左衛門とか、幕府をはじめ諸大名が、大きな住宅建築を次から次へと建てたものですから、それによって材木や建築の請負をしていました。それにしょっちゅう江戸が火事で焼けますから、建て直しを必要としたわけです。(略)そういうことで、住に関係した業態が非常によかったのです。」
2 商業史関係の資料
『江戸商家と地所』
家康の移封に伴って江戸の移った商人が家康から拝領した屋敷に関する文書についての書籍で、関連する記述は以下のとおり。
p10「浜松城居城時代の徳川家康から、「唐人一官(*人名)」が浜松で拝領した土地(中略)一官もそれに随行して江戸に来て、浜松時代と同じ面積の土地を江戸で貰った。」
p11「拝領屋敷を貰うケースがかなりありました。幕府の用達を勤める町人や職人、」
p16「秀吉の命令を受けた家康は公式に江戸城に入城~領地替えのため、旧領から家康始め彼の配下のすべての家族・寺、はては墓石までが(中略)江戸に移されました。」
p182「『江戸明治大正史<日本橋界隈の問屋と街>』(白石孝著 平成九年 文真堂刊)では、日本橋に近江商人が多い事に触れた」
p184「呂一官という唐人(中略)家康の江戸入部とともに江戸に下った。」
この記述の参考文献として『近江商人物語』『江戸日本橋のれん物語』あり。
『江戸商業と伊勢店』
p17-61「第1章江戸市街の発展と商業」家康移封から開府ころの江戸の開発を商人(町人)の動向と絡めて記述している。初期は開発に伴う資材等の取引のため、開府期は人口集中にともなう取引の増加のため商人が流入したと読み取れる。
『日本橋の近江商人』(蝦名賢造著 新評論 2001)
p51によると日本橋に行商していた近江商人という意味らしい。
p29八幡商人の記述として「江戸市街の拡張、日本橋架橋という大事業のスタートとともにいち早く馳せ来たり(中略)出店を開いた」
『日本の商人 1 豪商の登場』
p95「茶屋四郎次郎」が家康の関東移封に同道し、屋敷を拝領し、城下の町割、建設に協力した旨の記述あり。
p213「末次孫左衛門」、p107~「角倉了以」は家康との関係の記述はあるが、拠点等を江戸に移した旨の記載はない。
『江戸豪商100話』
p42-44 「後藤庄三郎」が家康の命で江戸において小判座を組織した記述あり。
『近江商人』
p125 元和元年(1616)以降の近江商人の江戸進出について記述あり。
3 データベースで論文を検索する。
《CiNii》を〈茶屋四郎〉〈角倉了以〉〈末吉孫左衛門〉で検索する。
所蔵資料2件ヒットするが、回答に結びつく記述なし。
「特集 日本の創業者 波瀾万丈伝」(『歴史読本 46(9)』p62-69 新人物往来社 2001)
「日本史上の人物と史料 続」(『日本歴史 (501)』 p6-17 吉川弘文館 1990)
調査済み資料
『歴史の群像 6 商魂』(集英社 1984)
『図説人物海の日本史 5 朱印船と南海雄飛』(毎日新聞社 1978)
『家康はなぜ江戸を選んだか』(岡野友彦著 教育出版 1999)
『ヴィジュアル百科江戸事情 2 産業』(雄山閣出版 1992)
『江戸の大普請』(タイモン・スクリーチ著 講談社 2007)
『江戸を知る事典』(加藤貴編 東京堂出版 2004)
『江戸と大阪』(斎藤修著 NTT出版 2002)
『講座日本の封建都市 2 機能と構造』(豊田武〔ほか〕編 文一総合出版 1983)
『講座日本の封建都市 3 地域的展開』(豊田武〔ほか〕編文一総合出版 1981)
p10「また、徳川氏の入府以来、旧領三河や遠江からはいうまでもなく、近畿地方から諸商人が西下したという伝えはあるにしても、史料的に確認できるものはほとんどない。」
『帳箱の中の江戸時代史 下 近世商業・文化史論』(田中圭一著 刀水書房 1993)
『都市と近世社会を考える』(朝尾直弘著 朝日新聞社 1995)
『徳川幕府と巨大都市江戸』(竹内誠編 東京出版 2003)
『徳川時代の社会史』(大口勇次郎著 吉川弘文館 2001)
『身分的周縁と近世社会 3 商いがむすぶ人びと』(吉川弘文館 2007)
『京都の歴史 5 近世の展開』(京都市編 学芸書林 1972)
『人物日本の歴史 11 江戸の開府』(小学館 1975)
『豪商 角倉了以を中心とする戦国大商人の誕生』(野村尚吾著 毎日新聞社 1971)
角倉、茶屋、後藤庄三郎と家康の関係については記述あり。
『江戸東京学事典』(小木新造〔ほか〕編 三省堂 1987)
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
-
- 日本史 (210 9版)
- 商業史.事情 (672 9版)
- 参考資料
-
- 『近世史ハンドブック』(近藤出版社 1972)
- 『日本人物史大系 3 近世』(朝倉書店 1959)
- 『江戸幕府の権力構造』(北島正元著 岩波書店 1978)
- 『首都江戸の誕生 大江戸はいかにして造られたのか 』(大石学著 角川書店 2002)
- 『日本の歴史 13 江戸開府』(中央公論社 1983)
- 『日本歴史シリーズ 11 江戸開府』(遠藤元男他編 世界文化社 1972)
- 『日本の歴史 10 江戸開府』(研秀出版 1976)
- 『東京百科事典』(国土地理協会 1982)
- 『東京都の歴史』(竹内誠〔ほか〕著 山川出版社 1997)
- 『江戸幕府 その実力者たち 上』(国書刊行会 1983)
- 『日本史探訪 6』(海音寺潮五郎〔ほか〕著 角川書店 1972)
- 『江戸商家と地所』(鈴木理生著 青蛙房 2000)
- 『江戸商業と伊勢店』(北島正元編著 吉川弘文館 1975)
- 『日本橋の近江商人』(蝦名賢造著 新評論 2001)
- 『日本の商人 1 豪商の登場』(ティビーエス・ブリタニカ 1984)
- 『江戸豪商100話』(萩原裕雄著 立風書房 1990)
- 『近江商人』(渡辺守順著 教育社 1986)
- キーワード
-
- 商人
- 日本-商業-歴史-江戸時代
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000103676