レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 20151013
- 登録日時
- 2019/10/28 00:30
- 更新日時
- 2020/04/15 16:38
- 管理番号
- 0000200507
- 質問
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解決
唐津藩主小笠原長行の家族と、長行の世子・廃嫡について知りたい。
- 回答
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御質問の件について、下記のとおり回答します。
1.「小笠原長行の生母の名と生没年」については、次の資料に記載がありました。
(1)「小笠原壱岐守長行」 小笠原壱岐守長行編纂会/編纂 土筆社 1984年
P10 生母を松會氏となす。
(2)「開国の騎手 小笠原長行」 岩井 弘融/著 新人物往来社 1992年
P20 生母は松倉(島原の乱で取りつぶされた旧島原城主、松倉氏の一族か。一説に松会)の姓であったという記載から、生母の姓は松倉、名は不明。生母の生没年については不明。
2.「小笠原長行の正室の名と生没年」については、次の資料に記載がありました。
(1)「小笠原壱岐守長行」 小笠原壱岐守長行編纂会/編纂 土筆社 1984年
P337 慶応元年八月二日、佐州公の長女満寿姫と合?の式を挙げらる。
(3)「幕末閣僚伝」 徳永 真一郎/著 毎日新聞社 1982年
P201 長行は初めて正式の夫人を迎えた。唐津藩主の長国の長女満寿姫である。長行は四十六歳、満寿姫は十八歳。という記載から、正室の名は満寿姫、満寿姫の生まれた年は1850年ごろと思われる。没年は不明。
3.「小笠原長行の側室の名と生没年」については、次の資料に記載がありました。
(4)「新版 鎮西町史 下巻」 新版鎮西町史編纂委員会/編集 唐津市 2006年
P35 側室美和(長行の儒学の師であった松田迂仙の娘)とともに花卉盆栽を楽しみ~略~。
P40 明治五年、~中略~十月十七日、(捨丸の)生母美和は三十二歳で急死した。という記載から、側室の名は美和、美和の没年は明治五年、生まれた年は1840年ごろと思われる。
4.「小笠原長行の世子、廃嫡年月日」については、次の資料に記載がありました。
(1)「小笠原壱岐守長行」 小笠原壱岐守長行編纂会/編纂 土筆社 1984年
P686 安政四年(36歳)九月二十一日 長國公の養嗣子となる。
P706 明治元年(47歳)二月十日 病気廃嫡厄介となる。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本 (281)
- 九州地方 (219)
- 参考資料
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(1)『小笠原壱岐守長行』復刻版 付録解説. 土筆社, 1984.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I046252322-00 -
(2)岩井弘融 著 , 岩井弘融. 開国の騎手小笠原長行. 新人物往来社, 1992.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I003926387-00 , ISBN 4404019637 -
(3)徳永真一郎 著 , 徳永, 真一郎, 1914-2001. 幕末閣僚伝. 毎日新聞社, 1982.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001545591-00 -
(4)新版鎮西町史編纂委員会 編 , 唐津市. 鎮西町史 下巻 新版. 唐津市, 2006.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000008233715-00
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(1)『小笠原壱岐守長行』復刻版 付録解説. 土筆社, 1984.
- キーワード
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- 肥前唐津藩
- 小笠原長行
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000263047