レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2013年09月12日
- 登録日時
- 2013/09/12 21:08
- 更新日時
- 2013/09/12 21:08
- 管理番号
- 20130912-8
- 質問
-
解決
呉佩孚について知りたい。
- 回答
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呉佩孚 【ごはいふ】 コトバンク
http://kotobank.jp/word/%E5%91%89%E4%BD%A9%E5%AD%9A (2013/09/12確認)
世界大百科事典 第2版
ごはいふ【呉佩孚 Wú Pèi fú】 1874‐1939
中国の軍閥,山東省蓬萊県の人。字は子玉。23歳で生員,のち保定軍官学校へ進み,曹錕(そうこん)の下で頭角をあらわした。直隷派の驍将として同派の政権掌握(1920‐24)に功があった。1923年の二・七虐殺(京漢鉄道ストライキ)にみられるように,軍閥支配者の本質は不変だが,たびたびの平和提案など,時局の趨向に投ずることに長じ,軍閥のなかではかなり人気があった。北伐軍に敗れて第一線を退き,のち日本の担ぎ出し工作には応じなかった。
呉佩孚(ごはいふ) Yahoo!百科事典[日本大百科全書(小学館)]
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%91%89%E4%BD%A9%E5%AD%9A/ (2013/09/12確認)
[現地読み:ウーペイフー]
(1872―1939)
中国、山東(さんとう/シャントン)省出身の政治家。若くして軍隊に投じ、のち保定武備学堂を卒業。袁世凱(えんせいがい)部下の軍閥曹錕(そうこん/ツァオクン)をかつぎ、中華民国以後の軍閥混戦のなかで、直隷派(ちょくれいは)として大きな勢力を築き上げた。まず1920年、日本に後押しされた安徽(あんき)派の段祺瑞(だんきずい/トワンチールイ)を追い(安直戦争)、1922年にはやはり日本の影響下にあった奉天派の張作霖(ちょうさくりん/チャンツオリン)を追って(第一次奉直戦争)、賄賂(わいろ)選挙によって曹錕大総統を実現し、北京(ペキン)政界に重きをなした。1923年、京漢(けいかん)線の鉄道労働者のストライキに大弾圧を加え、共産党員林祥謙を焼き殺した。1924年、ふたたび奉天派と戦ったが、馮玉祥(ふうぎょくしょう/フォンユイシヤン)の寝返りで敗退(第二次奉直戦争)。その後は再起することができず、1932年から北京に隠棲(いんせい)した。日本軍占領下で一時傀儡(かいらい)政権に参加させられたが、名目だけにとどまって、いっさい協力せず、抗日戦争中に病死した。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 中国 (222 9版)
- 個人伝記 (289 9版)
- 政治史.事情 (312 9版)
- 参考資料
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 人物
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000137066