レファレンス事例詳細(Detail of reference example)
[転記用URL] https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000232311提供館 (Library) | 島根県立図書館 (2110035) | 管理番号 (Control number) | 島根郷2018-03-001 | |||||||
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事例作成日 (Creation date) | 2018年03月07日 | 登録日時 (Registration date) | 2018年03月08日 17時43分 | 更新日時 (Last update) | 2019年09月12日 17時48分 | |||||
質問 (Question) | 島根県立松江北高等学校に、同校のシンボルとなっている「赤山の松」があるが、これがどのような経緯で植えられたのか知りたい。 | |||||||||
回答 (Answer) | 当館所蔵資料より、下記の資料を紹介し回答。 資料1:p254-267「赤山移転校舎新築のこと決まる」の項目あり。松江北高校の前身、松江中学は当初殿町にあり、手狭になったので明治28年に島根県会で新校舎を奥谷町赤山に建設し移転することが決まった。この移転に際し、福岡世徳・松江市長から畑地を、塩野家から樹木井戸の寄付が行われた。両者は校舎移転先にあった畑地・樹木井戸を同校の使用に指定して寄付している。その中に「松 二本」とあり、これは「永世保存指定」となっている。p265に2本の松(双松)と塩野門之助の写真あり。 p341-345「赤山の二本松『双松』のこと」の項目あり。校地北側によりそってそびえる二本の松の大木は、もともと塩野門之助家の所有であり、同家の屋敷地が買収されるにあたり、この松を永世保存することを条件に同意した、とされている。また昭和40年時頃での推定樹齢を150~200年、塩野家では子・孫へ双松のことを語り継いでいることなどが記述されている。 この松が「双松」として同校のシンボルとして扱われるようになったのは、明治39年の創立30周年記念式、同40年の皇太子行啓のころからではないか、としている(p345)。創立30周年記念式では「学友会雑誌」特別号の表紙に二本松と星をあしらったデザインであり、生徒総代の式詞や祝賀の歌に「双松」「千歳の松の二本」という言葉が出てきている(p430-436)。p449には、「双松」という言葉が校風を象徴する意義を確定的に与えられたのは明治40年5月の皇太子行啓を迎えたときといえるだろう、としている。当時の校長が昭和28年の回顧録に「校庭に亭々と生ひ茂ってゐた双松樹を本校精神の一象徴となし、その樹下に生徒を集めて元気を鼓吹するを例とした」と述べている。 資料2:縦組p15-45「塩野門之助-事績と資料-補遺」(田中隆二)。経緯は資料1と同じ。p25-33で、1本の松が松くい虫が原因で枯死し、昭和63年2月に伐採されたことを載せる。 資料3:資料1・2の元となった資料。冒頭部分に赤山の松について記述あり。後半部分は塩野氏の経歴について。 | |||||||||
回答プロセス (Answering process) | ||||||||||
事前調査事項 (Preliminary research) | ||||||||||
NDC |
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参考資料 (Reference materials) |
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キーワード (Keywords) |
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照会先 (Institution or person inquired for advice) | ||||||||||
寄与者 (Contributor) | 備考 (Notes) | |||||||||
調査種別 (Type of search) | 文献紹介 | 内容種別 (Type of subject) | 郷土 | 質問者区分 (Category of questioner) | 社会人 | |||||
登録番号 (Registration number) | 1000232311 | 解決/未解決 (Resolved / Unresolved) | 解決 |