レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2015/11/13
- 登録日時
- 2016/03/31 00:30
- 更新日時
- 2016/11/05 15:42
- 管理番号
- 0000001368
- 質問
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解決
豊岡藩(兵庫県)出身で明治末年に旧制第四高等学校(金沢大学の前身諸校の一つ)校長を務めた吉村寅太郎の事績について、関係する史料・研究資料を探しています。
なお、天誅組の変に関わった幕末の土佐藩士とは別人です。
- 回答
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石川県に関係する資料を中心にお調べしました。
・「石川教育」155号(大正6年2月号)30pに「吉村寅太郎氏逝去」と題し死亡記事、略歴が掲載されていました。
「第四高等学校名誉教授強化用図書調査委員会委員従四位勲三等吉村寅太郎氏は、豫て胃癌に罹り、東京青山の自邸にて療養中なりしが、薬石効なく1月15日終に卒去せり。享年70.病気危篤の趣天聴に達するや、特旨を以って旭日中綬褒章加授の御沙汰あり。尚ほ整然の功労を思召され、祭祀料5百円白絹2匹を御下賜ありたりと。(後略)」以下、1pにわたり記述があります。
続いて31pには「逸話に乏しい吉村氏の逸話 浦井四高教授談」がありました。「惜しい教育者を失いました。(中略) サア逸話らしいものは一つも無い人です。私は前後10年も同一校に居ました、が教育者として格好の型の人です。(中略)まあ一言にして謂えば、古武士の面影ある格好の教育家ですが、夫れも教壇に立って講義する側ではなく、矢張り校長として校務を掌理して行くべき人物と申すほうが適当でせう。兎に角惜しい人でした。(「石川毎日新聞」より転載)」と半ページの記事がありました。
・『石川百年史』864-865p「吉村校長排斥運動」に「吉村は明治35年5月に着任、志士の気風があり、”寒潮事件”の前に行われた初の南下軍のさいは、陰ながら何くれと世話し、とくに取り立てて非難すべき人物でもなかったそうである。(中略)とにかく発端ははっきりしないが教授間に暗闘が生じ、これに生徒が巻き込まれたものだった。(中略)それはともかく、この問題は尾を引き、44年には学生大会が17か条にわたる詰問状を吉村に手渡して辞職を勧告、さらに代表が上京して文部省に陳情した。吉村が転任したのはその年の8月だった。」と1p強の記述があり、2×3cmの顔写真がありました。その他「時習寮②」の578p,「南下軍」の582p,「西田幾多郎」の626p,「学習院に集まる県人」の643pに、吉村寅太郎の名前が関係者として散見されます。
・「北辰雑誌」64号に「吉村前校長を送る」の記事があり「吉村先生去り給ふ。先生任に就き給ひてより10年、我が校の学風振興今日に及びしもの、誰か一に先生の精励の致す所なるを怪まむ。」以下、約半ページの記述がありました。
・『石川県教育史 第1巻』p668に「6代目吉村校長は、在職が一番長いが同校長も排斥運動を受け、話題を残した一人である。」、p669に西田幾多郎が吉村校長排斥運動時に生徒に伝えた言葉「(前略)君たちはストライキをやるなら旗色を鮮明にして堂々とやれ、それができないならやめろ。吉村校長は校長として完全とは思わないが、官が命じたのだから仕方がない。これを受けるべきだ。しかし駄目なら排斥してもかまわない」(『四高八十年』43年英法科卒、河田重の記録)」がありました。
・『旧制高等学校研究 校風・寮歌論編』124p「(ホ)教育方針の交流と時に学校騒動による修正」の項目に「吉村寅太郎 第二高等中学-二高校長(明治20~30年) 四高校長(明治30年~44年)」とありました。また、126-128pには明治30年3月の二高ストライキの経緯と「当時の吉村校長は、温厚実直生徒を視る事子の如く、其親切には敬服したが、精神的修養と体育方面には理解がなく、或る時生徒の会合に際して人間の精力には限度がある、学問に熱中するも、精力の浪費であり、運動競技に熱中するも精力の浪費である。」等、教育思想に関する記述がありました。
・『近現代日本人物史料情報辞典 3』「何 礼之(が のりゆき)」の項に「明治元年に何は大坂中之島の高松藩邸内に移り住んで塾を開設、玉江橋の際にあったことから瓊江塾と命名した。この時の記録が、『中ノ島金比羅町瓊江塾』(福井県立図書館所蔵)であり、何自身の序文とともに入塾規則・塾則・学級順序が記されている。塾生は松田周次(鉄道技師)・高原弘造(工学士)・佐藤秀顕(開拓使・札幌物産課長)・林和太郎(三高教師) ・浜尾新(文部大臣,枢密院議長,東大総長) ・吉村寅太郎(東北大初代校長) ・豊川良平(岩崎弥太郎従兄,三菱) ・奥山政敬(第四大学区第一番中学校長)などがいた。」とありました。
・『図説 教育人物事典 中』『「學鐙」を読む』に「成女女学校」初代校長として名前のみ見つかりました。
・国立国会図書館「NDLサーチ」(http://iss.ndl.go.jp/)で「吉村寅太郎」を検索すると、デジタル化資料『豊岡誌 巻中』(兵庫県城崎郡豊岡町/発行 1942) がヒットし、041.jpgに吉村寅太郎の項目がありました。他にも『日本現時教育』(吉村寅太郎/著 金港堂 1898)、『視学提要』(吉村寅太郎/訳 金港堂 1900)、「教育公報」(204,205,207,209,212,230号)もヒットし、時代、教育関連の著作ということから、お探しの人物の著作ではあると思われますが、肩書きが明記されておらず確定はできませんでした。
・「Cinii」(http://ci.nii.ac.jp/)で「吉村寅太郎」をフリーワード検索すると、教育関連の論文に名前が散見されました。
・「金沢大学資料館」(http://museum.kanazawa-u.ac.jp/)の「金沢大学のあゆみ」-「金沢大学の歴史」-「写真で見る金沢大学の歩み」とリンクをたどっていくと、「8 記念写真(西田幾太郎,校長,吉村寅太郎,生徒)」があり、風貌が確認できます。
平成27年11月13日確認
- 回答プロセス
- 事前調査事項
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◎宮地正人ほか編『明治時代史大辞典3』、稲村徹元ほか編『大正過去帳』、『豊岡誌 巻中』
◎『慶応義塾百年史』、『福沢諭吉門下』、『慶應義塾150年史資料集1』
◎『金沢大学五十年史 通史編』
◎『官報』、『職員録』、『第四高等学校一覧』、国立公文書館デジタルアーカイブ
- NDC
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- 教育 (37 9版)
- 参考資料
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- 1 石川教育 通巻154-164号合冊 石川県教育会 大正6.1-12 30-31p
- 2 石川百年史 石林 文吉∥著 石川県公民館連合会 1972 K209/22 578,582,626,643,864,865(写)p
- 3 北辰會雑誌 通巻62号 第四高等学校北辰会 第四高等學校北辰會 1895.12 M44.12 124-125p
- 4 石川県教育史 第1巻 石川県教育史編さん委員会∥編 石川県教育委員会 1974.3 K372/13/1 668,669p
- 5 旧制高等学校研究 校風・寮歌論編 高橋/佐門?著 昭和出版 1978.9 376.7/33 124,126-128p
- 6 近現代日本人物史料情報辞典 3 伊藤/隆?編 季武/嘉也?編 吉川弘文館 2007.12 R281.03/10039/3 93p
- 7 図説 教育人物事典 中 唐沢/富太郎?編著 ぎょうせい 1984.4 372.1/189/2 411p
- 8 「學鐙」を読む 紅野/敏郎?著 雄松堂出版 2009.1 051.3/10011 131、134p
- キーワード
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- 吉村寅太郎
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 人物
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000190465