レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2014/1/10
- 登録日時
- 2014/06/21 00:30
- 更新日時
- 2024/03/30 00:36
- 管理番号
- M13122316066264
- 質問
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玉野市電が廃止された理由について知りたい。
- 回答
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・『玉野市電気鉄道』(資料①)には、備南電気鉄道株式会社は経営難のために玉野市に事業が移管されて、1956(昭和31)年3月24日に玉野市電気鉄道となった経緯とともに、市営になってからも経営がよくなかった状況について詳細に記載されている。
市営後の1960(昭和35)年8月、市電は玉~玉遊園地間を前までの路線延長が行われたが、「1961年(昭和36)年には両備バスが宇野~岡山間に開通した新国道を経由して渋川まで乗り入れ、20分毎に運行した。定期利用客は別として、市電とバスの停留所が並んでいるところでは客は早くきた方へ乗るので、回数の少ない市電はバスにとられがちとなった。」とある。
また、「市内の様子も変化、市の中心は玉から広い塩田埋立地のある宇野地区へ移ってきた。このようなことも市電利用者が減少する原因となった。市電は朝夕の通勤通学客の利用が定着していたが、昼間はがら空きの状態が続いていた。」とある。
赤字対策として検討されたのが電車を気動車に替えて経費節減を図る動力変更で、1964(昭和39)年11月に気動車の使用を開始したが、「結果はあまり思わしくなかった」という。
1966(昭和41)年3月に市長は財政難を理由に市電廃止の意向を市議会で表明した。市長は廃止理由として、「1.多くの血税を一部の利用者のためにつぎ込むのは不公平」、「2.各踏切で増える自動車の交通を阻害しているのは、交通体系の面からも好ましいことではない。」と2点あげている。
一部議員や地元から廃止反対の意見もあったが、両備バスによる代替輸送、増便の見通しがつき、正式な廃止が決定し、1972(昭和47)年3月31日限りで営業廃止することになったことが記載されている。
・このほか、『私の街を走った電車』(資料②)や『レイル No.29 私鉄紀行/瀬戸の駅から 上』(資料③)、『玉野50年市民の証言から』(資料④)、『目でみる岡山・玉野の100年』(資料⑤)にも、玉野市電が廃止された理由もしくは関連事項の記載がある。資料⑤には、閉業の日に無料で乗せたお別れ電車の写真が掲載されている。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 鉄道運輸 (686 9版)
- 参考資料
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①橋本正夫『玉野市電気鉄道』ネコ・パブリッシング,2008,45p.参照はp.6-7,22-23,34-35.
②橋本正夫『私の街を走った電車』〔玉野〕橋本正夫,1987,120p. 参照はp.15-33,103-105.
③湯口徹『レイル No.29 私鉄紀行/瀬戸の駅から 上』 エリエイ出版部プレス・アイゼンバーン,1992,122p. 参照はp.68-72.
④山陽新聞玉野支社編『玉野50年 市民の証言から』岡山 山陽新聞社,1990,213p. 参照はp.72-75.
⑤『目で見る岡山・玉野の100年』名古屋 郷土出版社,2001,146p. 参照はp.122~123.
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①橋本正夫『玉野市電気鉄道』ネコ・パブリッシング,2008,45p.参照はp.6-7,22-23,34-35.
- キーワード
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- 玉野市電気鉄道
- 玉野市営電鉄
- 備南電気鉄道
- 備南電鉄
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- M2013122316020966264
- 調査種別
- 内容種別
- 質問者区分
- 全年齢
- 登録番号
- 1000154803