レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2015年01月24日
- 登録日時
- 2016/09/02 13:46
- 更新日時
- 2016/11/02 16:00
- 管理番号
- 埼久-2016-059
- 質問
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未解決
常陸平氏の友部氏は石岡市の廃寺ゼンコウ寺に墓があったそうだが、領地と離れているのは何故か。また友部町に屋敷があった友部氏の出自を知りたい。
- 回答
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歴史関連資料を所蔵する県立熊谷図書館が資料移動で休館中のため、自館所蔵資料のみを調査した。
茨城県石岡市にある善光寺と友部氏との関連、また友部氏の出自について記述のある資料は見られなかった。
- 回答プロセス
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《Google》(http://www.google.co.jp/ Google)を〈石岡市 & ぜんこう寺〉で検索する。
《善光寺楼門》(http://www.ishioka-kankou.com/page/page000082.html 石岡市観光協会)
「善光寺は、真言宗豊山派に属し「善光寺縁起」によると、1501年(文亀元)3月当時、小田城主であった小田成治の母堂が善光寺如来を深く信仰し、万代安穏の地を選び、この地に建立しました。 (中略)住所 〒315-0102 石岡市太田877」とあり。友部氏の記述なし。
『日本歴史地名大系 8 茨城県の地名』(平凡社 1982)
p329 「友部村(友部町南友部)」の項に、「中世は宍戸氏の支配下にあって、配下の友部氏の館が古山(こやま)にあった」との記述あり。
p445 「太田村」の項に「善光寺(新治郡)」の説明あり。八郷町太田に所在し、真言宗豊山派寺院で、文亀元年(1501)「小田城(現筑波郡筑波町)」(現在はつくば市)城主小田成治の創建、「水府志料」にも記された室町時代の様式の仁王門は県指定文化財との記述あり。友部氏の記述なし。
『日本地名大辞典 8 茨城県』(角川書店 1983)
「善光寺」の項目なし。
p328-329 「宍戸城(友部町平町・大田町)」の項に、城主の宍戸氏の説明あり。鎌倉初期の八田知家の四男宍戸家政が宍戸城を築城し、以後宍戸氏が代々この地を支配したが、文禄元年(1592)佐竹氏との戦いに敗れ、真壁郡海老島城(明野町)に移り、以後佐竹氏が慶長7年(1631)まで支配したとの記述あり。
p682 「友部(友部町)」に近世以前の記述なし。
p1328-1329 八郷町の沿革の中世部分の記述に、八郷町町域は、平将門の乱後、常陸平氏一門が支配し、鎌倉時代には、馬場大掾氏、常陸国守護八田(小田)氏、北条得宗一門の支配となり、南北朝・室町時代には足利氏や守護の佐竹氏・小田氏の支配地となり、戦国時代には小田氏一門の片岡氏が大部分を支配し、その後佐竹氏が支配したとあり。友部氏の記述なし。
p1341 友部町の沿革に、中世の友部町は鎌倉初期に、常陸守護職八田知家の四男宍戸家政がこの地を支配して以降、宍戸氏による支配が続いた旨の記述があるが、友部氏の記述なし。
p1558 友部町南友部の小字一覧に、「古山(コヤマ)」あり。
『茨城県大百科事典』(茨城新聞社 1981)
p611 「ぜんこうじ(善光寺)」の項あり。八郷町太田に所在し、真言宗豊山派寺院で、「善光寺縁起」によると、文亀元年(1501)小田城主小田成治の創建。現在は無住寺で、仁王門が県指定文化財とあり。
《Google》を〈常陸平氏 & 友部氏〉等で検索するも関連する記述なし。
ウェブサイト・データベースの最終アクセスは2016年1月24日。
- 事前調査事項
- NDC
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- 系譜.家史.皇室 (288 9版)
- 日本 (291 9版)
- 参考資料
- キーワード
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- 常陸平氏
- 友部氏
- 善光寺 (茨城県八郷町)
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000196546