外務省記録「仏国内政関係雑纂 属領関係 印度支那関係 安南王族本邦亡命関係」に含まれています。
フランス植民地主義に抵抗し、1904年(明治37年)に「越南維新会」を結成したファン・ボイ・チャウは、翌1905年(明治38年)4月、ベトナム独立への援助を求めて日本に渡りました。日本では、大隈重信(おおくま・しげのぶ)や犬養毅(いぬかい・つよし)のほか、中国の変法運動に挫折し日本へ亡命していた梁啓超(りょうけいちょう)らと接触し、人材の育成が急務であるとの認識から、ベトナム青年の日本留学を呼びかけました。これに応じて来日したベトナム留学生は約200人を超えたとされ、こうした動きは「東遊運動」(トンズーうんどう)と称されます。
「海外血書」は、チャウが日本滞在中の1906年(明治39年)に執筆したもので、原稿はベトナムに送られて、ハノイに設立された「東京義塾」によって印刷・配布されました。その内容は、フランスの目的がベトナム人種の絶滅にあるとして、ベトナム人の民族的な自覚と魂の回復を促したもので、ベトナム人の中から福沢諭吉(ふくざわ・ゆきち)やルソーのような人物が現れることを期待する言葉で結ばれています。
外務省記録に含まれている「海外血書」は、1909年(明治42年)2月に東京の印刷所で550部印刷された小冊子で、漢字、字喃(チュノム/漢字を使用した民族文字)、国語(クオックグー/ラテン語を使用した民族文字)の3種類の文字で書かれています。この小冊子は警察から「危激ノ印刷物」とみなされ警告を受けますが、その際チャウは、法令の範囲内で今後も「本国人教育」のための出版物の発行および本国への発送を希望する旨を伝えています。しかしチャウは、日仏協約(1907年)を背景に反仏ベトナム人の取締り強化を日本に要求するフランスの動きなどもあり、翌3月に日本を離れて、活動の拠点を香港へと移しました。