ブルークスは、1833年、米国マサチューセッツ州に生まれ、フランスで教育を受けました。その後、1854年にサンフランシスコで起業し、1867年10月(慶応3年9月)、徳川幕府から在サンフランシスコ領事を委嘱されました。明治初期に外務省が編纂した幕末外交史料集『続通信全覧』「編年之部 慶應三年」の記録によると、当時、横浜・サンフランシスコ間の定期航路が開設され、日米間の往来増加が予想されたため、駐日米国公使はブルークスへの領事依嘱を幕府に提案しました。この間のやりとりを記した書簡には、ブルークスは日本を景慕し、長年日本のために無償で奉仕し、1860年(万延元年)、咸臨丸がサンフランシスコへ渡航した際には、亡くなった水夫を手厚く埋葬し、石碑まで建てた誠実忠良の人物であると記されています。
ブルークスは明治政府成立後も引き続き領事を勤めました。1872年(明治5年)~1873年(明治6年)には岩倉遣欧使節に随行し、使節の帰国に伴って日本に滞在していた1873年10月には明治天皇に謁見しています。これは、右大臣岩倉具視(いわくら・ともみ)が推挙したもので、岩倉は、ブルークスが幕府時代より、米国に渡航した日本人の便宜を図り、遣欧使節に随行した際も一方ならず尽力してくれたとしています。
その後、同年12月、サンフランシスコに日本人副領事が赴任してからはブルークスは領事助勤となり、翌1874年(明治7年)11月、ワシントンの駐米日本公使館へ転勤を命じられたのを機に辞職しました(翌年許可)。明治政府からは長年の尽力への報謝として金1,000円が贈られました。
ブルークスの履歴と領事辞職の経緯を示す記録は外務省記録「在外公館ニ於テ外国人雇傭雑件 別冊領事館之部」に、明治天皇への謁見に関しては外務省記録「外国人謁見関係雑件」に関係記録が収録されています。また、岩倉遣欧使節に随行した際の記録は外務省記録「本邦人ノ外国訪問関係雑件 右大臣岩倉具視特命全権大使トシテ締盟各国ヘ派遣之件」に収められています。