外務省記録「本省職員養成関係雑件」に関係記録が含まれています。
敝之館(へいしかん)は、海外(主に米国)生まれの日系二世に対して2年間にわたり日本語や日本事情を学習させて、将来的な対外宣伝と通信事業に従事する人材を養成することを目的に、外務省情報部長の河相達夫が中心となって、同盟通信社と満鉄の協力を得て東京中野に設立された施設です。1939年(昭和14年)夏に募集を開始し、同年12月1日に第1回生16人が入校しました。
敝之館では日本の歴史地理や文化、政治経済、習字、翻訳などについて学習するとともに、実地見学として樺太・北海道から九州・沖縄・台湾までを視察旅行するなどの活動を行いました。1941年(昭和16年)には、第1回生の成績が「頗る良好」であったとして2度目の募集を開始しましたが、日米関係の悪化により北米からの希望者が集まらず、東南アジア方面でも募集が行われました。その後、戦時中も敝之館は存続し、1945年(昭和20年)4月に第5回生が入校しましたが、同年8月の終戦により閉鎖となりました。敝之館の学生・卒業生の一部には、海外放送・通信の傍受などを目的に設置された「外務省ラヂオ室」の設立、運営に深くかかわるものもいました。
なお、「敝之館」の名称は、『論語』「公治長篇」の「願車馬衣軽裘、与朋友共、敝之而無憾(願わくは車馬衣軽裘を、朋友と共にし、之を敝りて憾む無からん)」(現代語訳:車馬や着物や毛皮の外套を友人たちと共有し、それが破れ損じたとしても、うらめしく思ったりしないようにしたい)に由来しています。