レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2019年10月22日
- 登録日時
- 2019/11/08 13:56
- 更新日時
- 2019/12/01 12:33
- 管理番号
- 2019-35
- 質問
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解決
『松山ロシア兵捕虜収容所研究2005年度』に記載があったが、1904年8月頃から収容所所長であった河野春庵の活動・動向を知りたい。
- 回答
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【資料1】
松山収容所で過ごした著者から見た河野大佐のことが書かれている。資料全体を通してところどころ記述があり、該当箇所の特定が難しく、相互貸借がよいかと思われる。
【資料2】
伊予史談会所蔵「松山収容露国俘虜」(松山俘虜収容所 1906年刊)を電子複写・製本した資料で、「序」を河野春庵が書いている。河野春庵の事績というより、捕虜の日常生活等が記されている。
【資料3】
この資料で、河野春庵の名前が出ているのはp126-127、「第Ⅲ部 ロシアからみたマツヤマ/第7章 手紙のなかのマツヤマ/2 マツヤマの生活/(1)収容所当局」の一部分。また、「松山捕虜収容所関係年表(抄)」のp234に、1904年7月23日に「陸軍騎兵大佐河野春庵松山俘虜収容所委員長として発令」と記述がある。
【資料4】
この資料では、p51に「一九〇四年の七月下旬に三代目の責任者としてやってきた河野春庵・松山捕虜収容所長(当時は収容所委員長)は、収容所の予算を節約するために、全ての物品納入に当たって入札制度を導入することにした」という記述のみある。
【資料5】
以下、河野春庵に関する記述を抜き出し。
p146に「1904.7.23 陸軍騎兵大佐河野春庵、粟津中佐に代わり松山俘虜収容所委員長として発令。河野委員長は岐阜県出身。元騎兵第15連隊長・第16連隊長兼務。独仏両国語に通じ、騎兵関係兵書の翻訳書多数あり。[岐阜県神戸町誌][海南新聞]」とある。
p149に「1904.7.28 第11師団附騎兵大佐河野春庵来松小唐人町久保豊方へ投宿。[海南新聞] 河野騎兵大佐は初代俘虜収容所委員長というのが定説であったが、松山歩兵第22連隊内野辰次郎補充大隊長(初代)、粟津義夫中佐(第二代)に続く第三代委員長であったというのが真実である。編者注」とある。
p150に「松山俘虜委員長粟津(義夫)中佐は姫路収容所の委員長に転任し、後任は騎兵大佐河野春庵氏に任ぜられ既に着任せり。[本日附愛媛新報][04.08.02付海南新聞]」とある。
p160-161に「1904.8.21 岐阜第四十二救護班松山衛戍病院へ派遣報告(略)岐阜は前述のとおり河野春庵松山俘虜収容所所長の出身県であり、偶然とはいえないものを感じる。看護班員も感慨を以て看護に努めたことであろう。編者注]とある。
p181に「04.11.01 昨日死亡の露国歩兵二等軍曹セルゲイ・ベリャーキンのため、本日午後一時前仮病院前に到り、例により墓標を認め、構内広場に於て葬儀を執行致候、改葬捕虜二百名許り、河野委員長も臨場せられしのみならず墓地まで見送られ、斯くて山越の陸軍墓地に到着し、式の如く埋棺の祈祷を終るや、委員長は棺前に進み、態度凛然として大要左の吊詞を述べらる、聞らく君は露国皇帝陛下の親任せらるゝ近衛親兵なりしと、然るに戦に臨み天晴御国の為に奮闘の餘終に負傷し、俘虜となりて当松山に於て療養中不幸逝去す、余深く之を傷む。希くは上帝は君の霊を昇天せしめ以て其右に安息せしめ給はんことを。(後略)[正教新聞第575号]」とある。
p200に「1904.12.09 妙圓寺収容所を閉鎖。当地収容中に健康将校(海軍将校を除く)60名へ従卒として下士以下60名を付して静岡収容所へ転送することになり本日河野委員長は来松中の静岡収容所委員長少佐堤真久氏と共に各収容所について転送すべきものを集めて言い渡した。[海南新聞]」とある。
p202に「1904.12.14 第三回松山水曜会開催 河野松山俘虜収容所委員長「風紀に関する注意」を喚起する。クプチンスキーは患者に在らざるにも拘らず病室に出入りし、永野看護婦と接触するは適切ならず。しかし、病室のことは軍医の監督する所ゆえ、しばらく静観すべしと。[本日開催の松山水曜会記事ヨリ]」とある。
p208に「1905.01.02 松山俘虜収容所委員長河野春庵、大本営副官堀内文次郎からの求めにより「俘虜将校以下負傷ニ就キ我銃砲火ノ効力ノ創傷部位別表」を報告する。[JASCAR(アジア歴史資料センター)防衛庁防衛研究所Ref.C06040896100]」とある。
p229に「1905.02.18 松山俘虜収容所委員長河野春庵『書面ヲ以テ伺ヒタル露国僧侶(デミトリー)当地残留ノ件ハ許可セラルルヤ否ヤ』と俘虜情報局長官あて電報を以て伺う。[JACAR(アジア歴史資料センター)防衛庁防衛研究所Ref.03026233800(明治38年満大日記2月下)]」とある。
p267に「1905.05.04 善通寺へ転送(中略)上記1000名の俘虜は岡部旅団長。河野所長及び各副官の見送りを受け高浜で土佐丸に乗り午前零時半出発。この転送者はいずれも陸軍ばかりで雲祥寺の波蘭人も悉皆送られた。[05.05.06付け海南新聞]」とある。
p271に「1905.05.12 昨日、河野春庵俘虜収容所長正宗寺にて写真撮影。[05.05.13付け海南新聞]」とある。
p291に「1905.07.02 鈴木九八司祭、河野収容所長に対し、市内各所に家を借り生活している将校の家庭訪問を許可せられるよう申請中のところ、許可あり。本日より収容所側監督将校同伴のうえ巡回を始める。」とある。
p300に「1905.08.14 上村艦隊のために撃沈せられたる当日にして殊に該號(リューリック號)乗組員にして撃沈の後我が将士にて九死の中救い揚げられり彼の生存俘虜将卒に取りては生涯忘れんとするも夢にだも能わざるの記念日なれば数日前当地に収容せらるる該號水兵将校の総代として海軍大尉ベールク氏より病室祈祷室に於て右記念の祈祷執行の儀を所長河野大佐まで願出置きたるに付、愈々当日午前九時より病室祈祷室に於て該號戦死者将卒の霊魂の安息の為聖体礼儀及び「パニヒダ」の祈祷を献じたり(以下略)」とある。
p313に「1905.10.04 俘虜囚の作業視察 松山俘虜収容所長騎兵大佐河野春庵氏は一昨日西讃より来高松栗林公園を遊覧し丸亀町角田に投宿昨日は第十一憲兵隊の某中尉と露語通訳の来高を待ち合せ松島監獄に収容中なる俘虜囚人の作業実況等を視察調査されしか仝氏は即夜便船にて帰所さるる筈なり[香川新報本日付]」とある。
p329に「1905.12.24 俘虜輸送 善通寺及び丸亀両収容所に収容しある俘虜患者三百四十九名は今回帰還せしむるに付き今明日中高浜港に輸送し来り明後二十六日高浜に入港すべき俘虜輸送船ツラワ号へ河野松山俘虜収容所長より引渡し本国へ輸送の予定なり(後略)[05.12.24付け愛媛新報]」とある。
p330に「1906.01.17 河野収容所委員長主催の園遊会、道後公園で催される。」とある。
p333に「1906.02.16 松山から最後の残留俘虜将校32名、兵卒28名が汽船豊浦丸に乗り高浜港を午後6時30分出帆。(中略)河野大佐俘虜収容所長殿も一行を高浜港まで見送り且つ「シャンパン」酒を抜き一行の帰国を祝せられたれば彼等も大に感謝の意を表しつつ互いに握手若くは接吻して文袂せり(後略)[06.02.24附、正教新報第六百九号]」とある。
他に、以下の資料を調査したが、河野春庵に関する記述は見当たりらなかった。
【資料6】【資料7】
- 回答プロセス
- 事前調査事項
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坂の上の雲まちづくりチームへ依頼し、所蔵館の有無調査依頼済。
- NDC
- 参考資料
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- 【資料1】『松山捕虜収容所日記 ロシア将校の見た明治日本』 F・クプチンスキー/著 小田川研二/訳 中央公論社 昭和63年 <当館請求記号:K986-1-フク> ※貸出可
- 【資料2】『松山収容露国俘虜』松山俘虜収容所/編 〔愛媛県立図書館〕 〔2002年〕 <当館請求記号:K329.62-マツ-2002> ※貸出可
- 【資料3】『マツヤマの記憶 日露戦争100年とロシア兵捕虜』 松山大学/編 成文社 2004年 <当館請求記号:K329.62-マツ-2004> ※貸出可
- 【資料4】『ロシア兵捕虜が歩いたマツヤマ 日露戦争下の国際交流』 宮脇昇/著 愛媛新聞社 2005年 <当館請求記号:K329.62-ミノ-2005> ※貸出可
- 【資料5】『松山俘虜収容所の時系列的研究ノート』[複写資料] 松尾忠博/編 〔愛媛県立図書館〕 〔2014年〕 <当館請求記号:K329.62-マツ-2014> ※貸出不可
- 【資料6】『ロシア人捕虜の記録』 才神時雄/著 新時代社 1973年 <当館請求記号:K329-2-フク> ※貸出可
- 【資料7】『ロシア人兵士俘虜記』 坪谷水哉/著 〔愛媛県立図書館〕 〔1973年〕 <当館請求記号:K329.62-ツス-2005> ※貸出可
- キーワード
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- 河野春庵
- 松山俘虜収容所
- ロシア兵捕虜
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 書誌的事項調査 事実調査
- 内容種別
- 郷土 人物
- 質問者区分
- 図書館
- 登録番号
- 1000264875