レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2019年08月14日
- 登録日時
- 2019/09/05 16:13
- 更新日時
- 2019/10/18 16:05
- 管理番号
- 2019-22
- 質問
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解決
二宮正禎の読み方と生没年、人柄がわかる記述と二宮正禎の手紙の出所が知りたい。
- 回答
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【資料1】の「第9編 人物」に、二宮正禎について以下の記述がある。
二宮(にのみや)正禎(せいてい)(春(しゅん)祥(しょう))(一七七七~一八五六)
一七七七(安永六)年、八幡浜浦本町に生まれた。幼名儀三郎、通称春祥と言った。
幼にして、当地の医師梶谷守典の門人として医術を学び、その傍ら国学を修めた。彼にとって、守典は国学の師でもあったわけである。
一八〇一(享和元)年、彼二五歳の三月、その師、梶谷守典からの紹介状を手に、本居宣長・荒木田久老の門をたたいた。伊勢松坂に宣長を訪うたが、京都へ出かけて留守と聞き、直ちに上京、四月七日、弟子として入門を許された。宣長の万葉集・源氏物語の講義を聞き、彼の国学に対する意欲は大いに燃え、宣長に対する尊敬の念も、ますます深まっていった。
六月九日、宣長は京都から松坂への帰路についた。正禎はその時、一時帰郷を余儀なくされ、宣長との別れを大いに悲しみ惜しんだという。宣長は、この時のことを「我を父の如く慕える 二宮春祥」と書き、鈴屋集巻九に「京を立てわかるるをり、伊予人二宮正禎長歌よみて、“ちゝの実の父としたのむ”などいへるにかへし、“我をしも父とたのめる子をおきて 別れかゆかむ 旅にしあれば”」と詠んでいる。同年秋、再度上京したが、九月の宣長の死によって、彼の志は果たされなかった。彼は、国学・和歌を深く研究し、特に和歌の造詣が深かった。帰郷後も、しばしば源氏物語などを講じ、伊予国学の興隆に尽くし、宣長亡き後、日本の国学者として重きをなした。
一八五六(安政三)年九月一八日、八〇歳で没した。大法寺墓地に葬る。
『愛媛県史』には、二宮正禎について以下の箇所に記述がある。
【資料2】の「第四章 近世」→「第一節 和歌」→「三 大洲藩の和歌」
【資料2】の「第四章 近世」→「第一節 和歌」→「四 八幡浜の国学歌人」
【資料2】の「第五章 近代・現代」→「第一節 短歌」→「一 明治前期」
なお、県史の内容は、データベース「えひめの記憶」のキーワード検索で「二宮正禎」を検索すると閲覧可。
二宮正禎の手紙の出所については、【資料3】収録の論文「二宮正禎の鈴屋入門について」近藤佶/著)に以下の記述がある。
さて、宣長が帰郷した後に、正禎は在京中の詳細を故郷の野田廣足(宣長及久老門人)に送った。
幸便ニ付一筆啓上仕候。残暑御座候所、御家内様益々御平安可被遊御座大悦至極奉存候。
少子無事乍憚御放意可被下候。殊ニ國本発足之節ハ彼是大ニ御世話被成下、御影ニ而いづこも/\都合よく仕合奉存候。先達而梶谷家に申遣候通り、五十槻先生へ入門之義は相止め鈴屋大人へ入門仕候。先頃、鈴屋大人在京之時、御講釈ニ毎日出席仕候。源氏、万葉おもしろき事いはんかたなし。げに独歩之先生と毎日歎息仕候事に御座候。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
- 参考資料
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- 【資料1】『八幡浜市誌』(市制五十周年記念版) 八幡浜市誌編纂会/編 八幡浜市 昭和62年 <当館請求記号:K294.3-3-カイ>
- 【資料2】『愛媛県史 文学』 愛媛県史編さん委員会/編 愛媛県 昭和59年 <当館請求記号:K200-31>
- 【資料3】『愛媛国文研究 第2号』 愛媛国語国文学会 1953 <当館請求記号:K910-5>
- キーワード
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- 二宮正禎
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 書誌的事項調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000261016