レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2018年07月06日
- 登録日時
- 2019/03/27 18:15
- 更新日時
- 2020/05/09 16:23
- 管理番号
- 広県図2018119
- 質問
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解決
統計業務において多くの功績を残し,明治24年(1891)に内閣統計局を退官した後,侯爵前田家の元史料編纂業務に従事していた,世良太一という人物について知りたい。
1 『広島県大百科事典』の項目の記述について
2 備後国(広島県)関係の資料で,世良太一の経歴に関わる記述について
- 回答
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1 『広島県大百科事典』の項目の記述について
『広島県大百科事典 上巻』中国新聞社/編集,中国新聞社,1982【H03/C62/1ア】
p.791 世良太一 せらたいち
「(略)備後国深安郡千田村(現福山市)に生まれる。若くして江戸に上り漢学を学び、20歳ごろ、加賀侯に仕え、石川県士族となった。後に杉亨二(略)に師事し、統計学を学び、1871年(明治4)に太政官政表課(杉が大主記であった。総理府統計局の前身)に奉職。(略)」
2 備後国(広島県)関係の資料で,世良太一の経歴に関わる記述について
『広島県人物・人材情報リスト 2017第1巻』日外アソシエーツ株式会社/編集,日外アソシエーツ(制作),2016【H281/ニチカ1/117-1】
p.576 世良太一 せら・たいち
出身地以外に備後及び加賀に関わる記述はありませんでした。
「出:備後国(広島県)」
「歴:明治4年太政官政表課に入る。9年表記学社,16年共立統計学校を設立に参画,統計の研究と後進の育成に努めた。」
また,次の資料を確認しましたが,世良太一の経歴について書かれた資料を見付けることができませんでした。
『福山市史 中巻』福山市史編纂会/編集,福山市史編纂会,1968【H21.52/F85/2ア】
p.834-871 学問と文芸
『藝備偉人傳 [上巻]上』坂本箕山/著,警醒社書店,1907【H28/Sa32/1】
『藝備偉人傳 [上巻]下』坂本箕山/著,警醒社書店,1907【H28/Sa32/2】
『広島県人名事典:芸備先哲伝』歴史図書社,1976(1925年刊「芸備先哲伝」の復刻)【H28/Ta77aア】
『安藝備後両國偉人傳:全』手島益雄/著,東京芸備社,1937【H28/Te83-2】
『備後ゆかりの歴史人物伝』田口義之/著,福山リビング新聞社,1995【H282/タクヨ95】
『クローズアップ備陽史:人間シリーズ』田口義之/著,福山商工会議所,2003【H282/タクヨ103ア】
『郡制二十五年』広島県深安郡役所/編,広島県立図書館(製作),1923【H291.63/F72a】
- 回答プロセス
- 事前調査事項
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世良太一は天保9年(1838)に備後国で出生した人物で、明治5年(1872)に太政官政表官に勤め、統計業務において多くの功績を残し、明治24年(1891)に内閣統計局を退官した後、侯爵前田家のもと史料編纂業務に従事していたとのことです。
世良が太政官に仕える前の経歴や前田家に加賀藩に仕えることになった経緯について知りたい、肖像が出ているものがあったら見たいという質問が来ています。
明治3年(1870)の「旧金沢県官員履歴」(『石川県史料 第五巻』所収)によると、世良は明治3年閏10月に権大属に任ぜられ、翌年8月に免官となっていることは確認できました(金沢県の吏員であったことから、旧加賀藩士であると考えられます)が、それ以前の幕末・明治初年の加賀藩士の交名帳(侍帳・職員録)や由緒帳では名前が確認できません(恐らく陪臣ではないかと推測されます)。
備後で出生した人物が、加賀藩士として明治を迎えているというのも特殊な事例ではないかと思われますが、なぜ加賀藩士となったのかも疑問な状態で、藩士となる経緯を調べている段階です。
『人物レファレンス事典』を見ると、『広島県大百科事典』に記述があるようですが、石川県内には所蔵がありません。
『市史年表 金沢の百年』「金沢藩参事 世良太一」の名前を確認。
(事典等)
・『人物レファレンス事典』 世良太一の項あり。
・『明治大正人物事典』 世良太一の項あり。
(加賀藩関係)
・「旧金沢藩官員履歴」
・『加賀前田家と尊経閣文庫』等
- NDC
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- 個人伝記 (289 9版)
- 参考資料
- キーワード
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- 世良太一
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土 人物
- 質問者区分
- 図書館
- 登録番号
- 1000254065