レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 20191030
- 登録日時
- 2019/12/27 00:30
- 更新日時
- 2020/03/26 12:08
- 管理番号
- 0401001327
- 質問
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解決
戦国時代の切支丹大名・高山右近が上天草の湯島に逗留したかどうか知りたい。 湯島の山の中腹に「高山」という地名があるが、そこは高山右近が逗留したので、その名が付いたと言われている。本当かどうか事実を知りたい。
- 回答
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高山という地名の由来について記述がある書籍は見つからなかった。
熊本の湯島が高山右近の隠棲の地として記述されている本は、参考資料①『九州キリシタン新風土記』501-502p 地名について記載あり。
②『大矢野町史』
・27-28p「四 高山右近 1 小西行長と右近…高山右近は、内外の切支丹信徒に絶大な信頼を受けたキリシタン大名であります。秀吉の追放にあい、一時、天草の湯島(談合島)に潜伏して小西行長の庇護を受けました。これらの真相は、諸書の記録がさまざまで、すこし理解に苦しむ点もありますが、大体次のようです。…秀吉が切支丹追放令を出したのは、前述の天正十五年六月十九日ですが、右近に対しては、明石六万石の所領を没収して流刑の処置をとりました。右近は、宣教師オルガンチノと共に、京都に近い瀬戸内海の一島に隠れて居たと思われます。然るに翌天正十六年五月十五日(実際に入部したのは六月二十八日)行長は肥後の南部半国の領主となりました。親友右近の身辺を案じて、自分の所領なる天草の小島、即ち今の湯島に引き取り、切支丹武士に命じて、他人の出入を禁じ、極力右近の安全を図りました。」
・47-51p「聖将高山右近伝 二九、隠棲地湯島に入る…右近は暫く高来の有家村の修道院に滞在して、附近一帯の伝道についていたが、天正十六年小西が大矢野の領主となるや、その厚意により対岸の有家から湯島に移り住んだのはその年の五月、初夏の候であった。これは筆者所蔵の秀吉から大矢野城主大矢野民部大輔へ下賜された朱印書(今の辞令)によって明らかに証明される」
- 回答プロセス
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・『九州キリシタン新風土記』の501,502頁に「高山」という小字に
ついての記述あり。
・『人物叢書 13 高山右近』 151頁 湯島説を否定
・『高山右近 加賀百万石異聞』 90頁 熊本県内に隠れ住んで
いたらしいが具体的な地名はわかっていないと記述あり。
- 事前調査事項
- NDC
- 参考資料
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- 『九州キリシタン新風土記』濱名 志松/著,葦書房,1989年 (501頁~503頁 高山右近地名の由来の記載あり|0114248420|C/198.2/ハ/)
- 『大矢野町史』渡辺 常吉/編,大矢野町役場,1970年 (27頁28頁、「聖将高山右近伝」48頁50頁 地名の由来の記述はなし|0110219003|C/210/L/ワ)
- 『天草吉利支丹史跡探訪』天草キリシタン文化史研究会/編,天草殉教者記念聖堂,2010.3 (記載なし|0119231470|C/198.2/ア/)
- 『高山右近を追え!』高橋 敏夫/著,いのちのことば社フォレストブックス,2012.6 (記載なし|0140365149|C/283/タ/)
- 『人物叢書 13』日本歴史学会/編,吉川弘文館,1973年 (151頁 湯島説否定|0110340890|/281/ジ/13)
- 『高山右近』北国新聞社,2003.1 (91頁 熊本県内に隠れ住んだらしいが具体的な地名はわかっていない。|0117851816|/289.1/タ/)
- キーワード
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- 湯島
- 高山右近
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 地名
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000271786