レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2013年07月10日
- 登録日時
- 2013/07/10 11:49
- 更新日時
- 2013/07/10 11:57
- 管理番号
- 038
- 質問
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解決
先祖が尼崎で生魚問屋を営んでいたと伝わっています。かつての尼崎では生魚取り引きが盛んだったのでしょうか?
そういった様子を調べるには、どのような文献を見たら良いのでしょう?
- 回答
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尼崎城下の生魚問屋の名前が史料のうえで最初に現れるのは元禄8年(1695)のことで、碇屋・丸屋という生魚問屋がそれぞれ城の東西の町にあったことがわかっています。
その後、18世紀半ばには5軒、19世紀初めには12軒を数え、取引先も大阪湾岸や淡路島の浦々はもとより、伊予(愛媛県)や周防・長門(山口県)など中国・四国地方の瀬戸内沿岸と島々へと広がり、遠くは北九州にまで及びました。
尼崎城下に集まる魚を取り引きする魚市場は、18世紀半ばに中在家町戎の浜(現中在家町2丁目)から同大浜筋4丁目の浜(通称「五丁目浜」、現中在家町4丁目)に移転拡張し、生魚問屋や出買人などが同町に集住していました。尼崎で売買された魚は大量に大坂市中に出荷されたのに加えて、土佐屋・広屋といった屋号の「上積み仲間」が今井船と呼ばれた船で淀川をさかのぼり、生魚を京都まで運んで販売していました。土佐屋は、伏見下鳥羽の横大路魚市場に出店をかまえていたことがわかっています。
このように、明治初年頃まで盛況を見せた尼崎の魚市場でしたが、明治10年代頃には鉄道の開通や京都の需要の減少などにより衰退し始め、生魚問屋は明治22年(1889)には5軒に減少してしまいました。
こういった、近世から近代初頭にかけての尼崎の生魚問屋について、『尼崎市史』及び『尼崎地域史事典』などの参考文献により調べることができます。
- 回答プロセス
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1 近世から近代初頭にかけての、尼崎の生魚問屋・魚市場などの概要について調べるための参考文献
◆『尼崎市史』第2巻第5章第5節2「漁業と魚市」
江戸時代初期に先進的漁法を以て関西漁民が関東や西海地方に進出していたことをはじめ、尼崎の生魚問屋の瀬戸内・西海方面との広域的な取り引きの様子、魚市場の活況などについて記述している。◆『尼崎市史』第3巻第6章第2節2「在来産業と農業の展開」
明治初年頃まで繁栄を見せていた尼崎の魚市場の、鉄道の開通や京都の需要減少などによる衰退を解説している。◆『尼崎地域史事典』/Web版尼崎地域史事典"apedia"
項目「生魚問屋」「魚市場」等2 上記参考文献の記述の根拠となる近世近代の関連史料を掲載した文献
◆『尼崎市史』第6巻史料編(近世・下)10「尼崎の漁業と魚市」
◆『尼崎市史』第7巻史料編(近代・上)6-4「水産業」
- 事前調査事項
- NDC
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- 水産業および漁業史.事情 (662)
- 参考資料
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- 『尼崎市史』第2・3・6・7巻 尼崎市 昭和43・45・51・52年発行 (当館請求記号 219/A/ア-2・3・6・7)
- 『尼崎地域史事典』 平成8年発行 (当館請求記号 219/A/ア)
- キーワード
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- 兵庫県尼崎市
- 中在家
- 魚市場
- 生魚問屋
- 照会先
- 寄与者
- 備考
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Web版 尼崎地域史事典"apedia"
http://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/apedia/
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000133558