レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2010/12/20
- 登録日時
- 2010/12/23 02:00
- 更新日時
- 2022/12/22 15:50
- 提供館
- 京都市図書館 (2210023)
- 管理番号
- 右中-郷土-32
- 質問
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解決
愛宕山の太郎坊天狗について
1.いつから「太郎坊」という名が付いたのか。
2.なぜ日本一の大天狗と呼ばれるのか。
- 回答
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1.愛宕山の天狗は古くから文献に登場しますが,固有名がありませんでした。『源平盛衰記』の巻8「法皇三井灌頂の事」における後白河法皇と住吉明神の問答の中で,初めて「太郎坊」の名が出てきたようです。
『源平盛衰記』の成立年代は不明です。また,久寿2年(1155)の藤原頼長の日記には愛宕山の天狗とあるのみで,20年ほど後の,安元3年(1177)の京都大火は愛宕山の天狗が引き起こしたとして「太郎焼亡」と呼ばれ,当時の検非違使の記録にも火事名「太郎」が記されています。
2.【資料10】にいくつか根拠が挙げられています。
・『今昔物語』の異国の天狗がまず頼ってきたのが愛宕の天狗。
・左大臣藤原頼長が近衛帝調伏の釘を打ち付けたのは愛宕の天狗像。
・王朝時代の天狗といえば事毎に愛宕の天狗が介入している。
・日本の天狗名第一号。
・古書に最もよく名前の出てくる天狗。
- 回答プロセス
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●愛宕山から
【資料1】p19愛宕山の由来について,江戸時代前期の『愛宕山神道縁起』の中の古縁起,あるいは同時期の『山城名勝志』「白雲寺」の項の縁起では大宝年間(701~704),役行者と泰澄が清滝から愛宕山に登ろうとした所,地蔵・龍樹・富樓那・毘沙門・愛染の五仏が現れ,さらに大杉の上に天竺の日羅・唐土の善界・日本の太郎坊が九億四万余りの天狗を率いて現れた。二人は朝日峰・大鷲峰・高雄山・龍上山・賀魔蔵山の五岳を置き,調停の許しを得て朝日峰に神廟を立てた。これが愛宕山の始まり。ただし元々鷹峯の東隣にあったものを移転したという説もある。こちらの説では旧地鷹峯が愛宕郡に属していたことから,元は手白山と言っていたのを,旧名を用いて愛宕山と称するようになったという。
p24~25愛宕山の祭神愛宕太郎坊について
・「愛宕山にいる天狗」であったのが「太郎坊」という名が与えられた。
・愛宕山の天狗が登場する文献として『古事談』『台記』『源平盛衰記』『太平記』を挙げている。
●京都の伝説から
【資料2】p179~184「愛宕山」
・愛宕山は天狗信仰の拠点で,しかも全国各地の天狗の惣領(長男)格であるということになっており,太郎坊天狗と呼ばれてきた。
・『源平盛衰記』の安元3年(1177)の火事の話に天狗が登場する。その火事が愛宕の天狗によって引き起こされたとの噂が流れたので,「太郎焼亡」と呼ばれた。樋口富小路の民家から出火し,占い上手の盲目の陰陽師が樋口=火口,富小路の富=鳶(当時の天狗は鳶の姿で飛行するとされた)を読み解き,愛宕山の天狗のしわざと判断した。
【資料3】p175『耳袋』の信州松本の藩士菅野五郎太夫が愛宕山の天狗になった話のあらすじを紹介。
●【資料1~3】に挙げられていた文献を確認する。
【資料4】『白雲寺縁起』について
p437白雲寺縁起の項目に「日本太郎坊(太郎坊一名栄術太郎)」という名が出てくる。
【資料5】『台記』は藤原頼長の日記。
久寿2年(1155)8月27日の日記に,若くして眼病で亡くなった近衛天皇の霊を巫女が口寄せところ,眼病は愛宕山にある天狗像の目に釘を刺して呪詛されたためであると言い,犯人として頼長と父忠実が疑われているが,自分は愛宕山に天狗像があるのを知らなかったので無実であると書いている。ここでは天狗に固有名詞はなく,「愛宕護山」「天公像」とのみある。
【資料6】『古事談』1212~1215年成立。
p462「藤原頼長,愛太子竹明神四所権現に呪詛のこと」
『台記』同様,藤原頼長が愛宕山の天狗像を使って近衛天皇を呪詛した事件を取り上げている。天狗名は出てこない。
【資料7】『太平記』成立年不明。
p328~345「大稲妻天狗未来記の事」
雲景という山伏が愛宕山に案内され,天狗の集会をみることになる。天狗の名は出てこない。
【資料8】『源平盛衰記』成立年不明。
p231~232「盲卜(めくらうらない)の事」※安元3年の太郎焼亡の話
引用“~富小路といえば,鳶は天狗の乗物なり。小路は歩きの道なり。天狗は愛宕山に住めば,天狗のしわざにて,巽の樋口より,乾の愛宕を指して,筋違さまに焼けぬと覚ゆ。”
p369~370「法皇三井灌頂の事」
後白河法皇と住吉明神の問答に太郎坊の名が出てくる。
正体を柿本紀大僧正とし,“日本第一の大天狗となって候ひき。これを愛宕山の太郎坊と申すなり。”
【資料9】『耳袋』1814年成立。
p308~309「天狗になりしという奇談のこと」
信州松本の藩中に萱野五郎というものがいた。ある年の正月に姿を消し,翌年の正月に床の間に手紙だけが置いてあり,本人の筆跡で現在愛宕山に住んでいて「宍戸シセン」と名乗っていると記されていた。
●天狗の研究書から
【資料10】p120「太郎坊」という名について
天狗名はどの書にも記されてなく,住吉神の託宣(『源平盛衰記』によって初めて太郎坊という名が登録された。
愛宕山の太郎坊が日本一である理由がいくつか挙げられている。
・『今昔物語』の異国の天狗がまず頼ってきたのが愛宕の天狗
・左大臣頼長が近衛帝調伏の釘を打ち付けたのは愛宕の天狗像。
・王朝時代の天狗といえば事毎に愛宕の天狗が介入している。
・日本の天狗名第一号。
・古書に最もよく名前の出てくる天狗。
●『今昔物語集』を確認
【資料11】p221~226「震旦天狗智羅永寿,渡此朝語第ニ」
震旦(中国)の智羅永寿という天狗が日本の僧と力比べをしにやって来る。日本の天狗を訪ねる場面があるが,「此ノ国ノ天狗」とあるのみ。脚注によると「是害坊絵巻」では愛宕山の大天狗日羅坊という。
●『是害房(ぜがいぼう)絵詞』
【資料12】p32~p37絵巻のカラー写真とあらすじあり。13世紀末成立。曼殊院蔵。
大唐の是害房が日本に渡ってきた。愛宕山の日羅房(太郎房)に会い,日本の高僧を倒そうと持ちかける。
絵の中に書き込まれている日本の天狗の名は「日羅房」である。【資料10】のp292に太郎坊の前身が聖徳太子の師日羅であるという説が紹介されていたので,日羅房=太郎房のことであり,解説でも同一視されている。
p125『是害房絵詞』の成立について解説あり。この天狗譚は元々『かった宇治大納言物語』という今は失われた説話集にあった物語の一端が『今昔物語集』に流れこみ,この『宇治大納言物語』の一話を鎌倉時代の末に河内の叡福寺において絵巻として作成した,その転写本が曼殊院蔵『是害房絵』である。主人公の天狗の名は「智羅永寿」から「是害房」に変わり,名前のなかった日本の天狗は「日羅房」と名乗っている。
●太郎焼亡について調べる
【資料13】p608「太郎焼亡,次郎焼亡」の項目
安元3年,治承2年と平安後期に連続して起きた京中大火。当時の「清獬眼抄」などにこの抄がみえる。
【資料14】『清獬眼抄(せいかいがんしょう)』は当時の検非違使の日誌。
p622~623「號次郎焼亡事」
引用“世人號次郎焼亡之。太郎ハ去年四月廿八日至干大極殿焼亡云云。”
- 事前調査事項
- NDC
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- 神社.神職 (175 8版)
- 伝説.民話[昔話] (388 8版)
- 小説.物語 (913 8版)
- 参考資料
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- 【資料1】『愛宕山と愛宕詣り』 (八木透編 昭和堂 2003)p24~25
- 【資料2】『京都魔界案内』(小松和彦著 光文社 2002)p179~184,188
- 【資料3】『洛中洛外怪異ばなし』(京都新聞社 1984)p175
- 【資料4】『新修京都叢書 第13 山城名勝志』(野間光辰編 臨川書店 1968)p436~437
- 【資料5】『増補史料大成 24 台記』(増補史料大成刊行会編 臨川書店 1982)p168
- 【資料6】『新日本古典文学大系 41 古事談』(佐竹昭広ほか編 岩波書店 2005)p462
- 【資料7】『新編日本古典文学全集 56 太平記』(小学館 1997)p328~345
- 【資料8】『新定源平盛衰記 第1巻』(水原一/考定 新人物往来社 1988)p231~232
- 【資料9】『耳袋 2』(根岸鎮衛著 平凡社 1979)p308~310
- 【資料10】『天狗の研究』(知切光歳著 原書房 2004)p120
- 【資料11】『新日本古典文学大系 36 今昔物語集』(佐竹昭広ほか編 岩波書店 1994)p221~226
- 【資料12】『妖怪絵巻 日本の異界をのぞく』(小松和彦監修 平凡社 2010)p32~37,125
- 【資料13】『京都大事典』(佐和隆研ほか編 淡交社 1984)p608
- 【資料14】『群書類従 第7輯』(塙保己一編纂 続群書類従完成会 1979)p622~623
- キーワード
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- 妖怪
- 天狗
- 愛宕
- 白雲寺
- 太郎坊
- 太郎房
- 是害房
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000075890