レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2013/4/1
- 登録日時
- 2013/06/07 00:30
- 更新日時
- 2014/09/25 15:57
- 管理番号
- 滋2013-0008
- 質問
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解決
彦根市平田町にある浄土真宗本願寺派明照寺はかつて現在の多賀町にあったそうだが、移転の経緯を知りたい。また、同寺と井伊家の関係も知りたい。
- 回答
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『日本名刹大事典』によりますと、「(前略)開創は明徳年間で(一三九〇-三)で、本願寺の五世綽如の弟子祐海によって開かれた。(中略)はじめ犬上郡後谷村(多賀町)にあったが、延徳元年(一四八九)に土岐氏が美濃国(岐阜県)から明照寺を襲ったので、当寺六世の祐善が本願寺六世の実如の命で、末寺の門徒数百を引きつれて、土岐氏を撃退した。その翌年に、山之脇村(彦根市)へ寺を移し、さらに慶長四年(一五九九)に現在地の平田へ移った。元亀・天正のころ織田信長が近江へ入り、浅井・朝倉らを攻めたとき、本願寺の勢力は信長を敵として抵抗したため、明照寺の信徒は反信長の行動をとった。時代が下がって、世は豊臣秀吉の時代となり、さらに徳川家康が登場して、大坂の役が起こると、彦根藩の井伊直孝が出陣した。このとき、明照寺は河瀬の法蔵寺、四十九院の唯念寺、薩摩の善照寺とともに、留守中の城中庶務をはじめ、大坂方の後方攪乱の備えから、隣国の一揆の警戒に至るまで、たいへん重要な任務を依頼された。この当時の明照寺は愛知・犬上・坂田三郡のほか、蒲生・神崎地方にも信徒があり、農民を把握していたので、たいへん有力であった。(後略)(渡辺守順)」とあります。なお、延徳元年に土岐氏が明照寺を襲ったことについては、『日本社寺大観 寺院篇』には、「延德元年、土岐氏濃州御坊を襲ふや、當寺六世祐善、本願寺九世實如の命を受けて末寺門徒數百を引具し、之を撃退す。」とあり、同年に土岐氏が襲撃したのは彦根の明照寺ではなく、美濃国の濃州御坊であり、明照寺六世祐善は本願寺の実如の命を受けて加勢に赴き、土岐氏を撃退したと読みとれます。また、『わが郷土 ふくみつ』〈改定版〉の明照寺第6世祐善の部分には、「延徳元年(一四八九)美濃御難平定の功により実如上人より末寺門徒へ御本尊三十三幅を賜う」とあります。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 各宗 (188 8版)
- 参考資料
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- 1 日本名刹大事典 圭室文雄∥編 雄山閣出版 1992年 R-1859-タ p.869
- 2 彦根市史 上冊 彦根市∥[編集] 彦根市役所 1960年 S-2151-1 p.297-300
- 3 彦根市史 中冊 彦根市∥[編集] 彦根市役所 1962年 S-2151-2 p.623
- 4 新修彦根市史 第1巻 通史編 古代・中世 彦根市史編集委員会∥編集 彦根市 2007年 S-2151-1 p.621-622
- 5 ひこね 渡辺守順 郷土資料刊行会 1982年 S-2151- 82 p.153
- 6 わが郷土ふくみつ 尾田確一∥著 福満郷土史研究会 1973年 S-2951- 73 p.27
- 7 彦根昔ばなし 彦根市教育委員会∥編集 彦根市教育委員会 1980年 S-3851- 80 p.47-50
- 8 日本社寺大観 寺院篇 藤本 弘三郎∥編 名著刊行会 1970年 R-1859-フ p.617
- 9 わが郷土 ふくみつ〈改定版〉尾田 確一∥著 福満郷土史研究会 1993年 S-2951- 93 p.34
- キーワード
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- 明照寺
- 浄土真宗
- 祐海
- 祐善
- 井伊直孝
- 実如
- 濃州御坊
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000132161