レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2010年11月18日
- 登録日時
- 2010/11/18 12:29
- 更新日時
- 2018/07/22 10:57
- 管理番号
- 12126
- 質問
-
未解決
『航薇日記』にある「郁盧島」、「下の女郎といふ島」はどの島か知りたい。
- 回答
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1 郁盧島(『明治文学全集 4』所収の『航薇日記』(注)での掲載箇所は106頁下段)
『航薇日記』の記述は塩飽諸島に沿って北上している。「豫島」を与島とするならば、
与島の北側に位置し、「瓦を焼く家夥し」との記述から、「郁盧島」は岩黒島ではないかと
推測する。
なお、『本四架橋に伴う島しょ部民俗文化財調査報告 第1年次』第3章各地の民俗 岩黒島
2 生産・生業には、文政年間(1818~1830)に、佐柳島から3名が移住し農業、瓦焼を
生業とするとの記述がある。(87頁)
また、日本常民文化研究所のウェブサイトで公開されている、「アチックミューゼアムにおける
写真資料」で、昭和12年に岩黒島で撮影された「瓦の天日干し作業」と題する写真が公開されて
いて、撮影当時も瓦の製造が続けられていたことがわかる。
・『本四架橋に伴う島しょ部民俗文化財調査報告 第1年次』(瀬戸内海歴史民俗資料館/編・発行 1981年)[当館請求記号:K3822 S2]
・「アチックミューゼアムにおける写真資料」で公開のされている「瓦の天日干し作業」[最終確認日:2010年11月18日]
http://atticblog.jominken.kanagawa-u.ac.jp/2010/02/post-162.html
2 下の女郎(『明治文学全集 4』所収の『航薇日記』(注)での掲載箇所は108頁下段)
「下の女郎といふ島」については、どの島か推測できなかった。
「下の女郎といふ島」の直前にある「尾出島」は「小豊島」と推測。
『Shimadas-日本の島ガイド 第2版』に、「小豊島」の表記に「おでしま」とのふりがなをあてている。(333頁)
また、「黒崎の鼻」は、土庄町の千軒(せんげ)にある岬と推測。
『角川日本地名大辞典 37(香川県)』黒崎の項(303頁)の「小豆郡土庄町千軒にある岬。
沖合いへ約200m突出し絶壁をなす」との記述と、『航薇日記』の地名「千家」や「黒崎の鼻を
廻るに巨石断巖奇怪の形状を見る」の記述に共通点がある。後の記述に「この辺より右に遠く
高松城を望む」とあり、視線を南にしているのならば、「右ハ尾出島といひ左ハ黒崎の鼻なり」との
位置関係も正しいものと思われる。しかしながら、「小豊島」と黒崎の間に島はなく、「小豊島」
南西のアワラ(阿原)島については、音のつながりがない。
このようなことから、「下の女郎といふ島」がどの島を指すのかは、推測できなかった。
・『Shimadas-日本の島ガイド 第2版』(日本離島センター/編・発行 2004年)[当館請求記号:2910 N103]
・『角川日本地名大辞典 37(香川県)』(角川日本地名大辞典編纂委員会/編 角川書店 1985年)[当館請求記号:K2910 K30]
(注)『航薇日記』は、『明治文学全集 4(成島柳北・服部撫松・栗本鋤雲集)』(筑摩書房 1969年)
96~116頁に収録がある。『明治文学全集 4』の解題によれば、明治2年10月成島柳北が義兄石川成齋の
領地備中妹尾に同行した時の往復遊記。
『花月新誌』82号(明治12年9月28日)から117号(明治14年11月20日)まで連載。
- 回答プロセス
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『航薇日記』は移動の経過に従い記述しているようである。また、地名は、聞いた音に漢字を当てはめているようである。
「郁盧島」、「下の女郎といふ島」の出現する前後の記述に注目しつつ、回答にある資料を用いて可能性のある島を検討した。
- 事前調査事項
- NDC
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- 日記.書簡.紀行 (915 8版)
- 日本 (291 8版)
- 参考資料
- キーワード
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- 航薇日記
- 「郁盧島」
- 「下の女郎といふ島」
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000073574