レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2012年05月04日
- 登録日時
- 2021/01/18 12:45
- 更新日時
- 2021/03/18 09:48
- 管理番号
- 横浜市中央2616
- 質問
-
解決
佐藤春夫の『田園の憂鬱』の舞台は青葉区らしいが、現在のどのあたりか。
また、作品が書かれた当時の青葉区の様子がわかる資料があれば見たい。
- 回答
-
1 作品の舞台となった場所について
佐藤春夫は自著の中で、一時期(1916(大正5)年)、神奈川県都筑郡中里村に住んでい
たこと、そこで『田園の憂鬱』の腹案ができたことを書いています。都筑郡はその後、港
北区、緑区、都筑区、青葉区の4つの行政区に分かれており、作家が住んでいた当時の住
所「中里村鉄(なかざとむらくろがね)1115-2」は、現在では、青葉区鉄町(くろがねち
ょう)1115となっています。なお、住居は後に近所に移築されましたが、昭和48(1973)
年には建て替えのため取り壊されており、現存しません。
住居跡付近には現在「佐藤春夫 田園の憂鬱由縁の地」の文学碑が建てられています。
この文学碑は、作中に「この村で唯一の女学生」として登場する女性が、昭和57(1982)年に
佐藤春夫本人の許可を受けて私費で建てたものです。
下記の資料に、住居と文学碑についての記述があります。
(1)『佐藤春夫 青春期の自画像/詩文半世紀』 佐藤春夫/著 鳥居邦朗/編
日本図書センター 1994.10 p.72-73
p.72に「東京近郊に土地を買い自分の住宅を建てる事を家庭に頼んでみる事であった。
(中略)その結果として神奈川県都筑郡の一隅(現今は横浜港北区の西北隅になってい
るという)の土地であった。」、p.73に「自分はその処女作の稿を起すにも到らずただ
その腹案を、卵のように心に抱いて(中略)自分がその田舎で得た腹案が「田園の憂鬱」
で」とあります。
(2)『現代日本文学大系 42 佐藤春夫集』 筑摩書房 1969 p.158-159
『お絹とその兄弟』の冒頭に「私はかつてK県T郡のNといふ村に住んだことがある。
(中略)私はその時の自分の生活の状態を「病める薔薇」(或は田園の憂鬱)といふ作品
のなかで書いた。」とあります。
(3)『碑はつぶやく 横浜の文学碑』 石井光太郎/編 横浜市教育委員会文化財課
1990.3 p.137-138
「佐藤春夫文学碑」解説に「『田園の憂鬱』(大正八年刊)の舞台(大正五年、都筑郡
中里村に仮寓、その生活を描く、なお〝お絹とその兄弟〟〈中央公論、大正七年十一月号〉)
としての仮寓跡に碑を建てたもの。建立者金子美代子は〝村で唯一の女学生〟として
『田園の憂鬱』に登場する。」とあります。
(4)『青葉のあゆみ』 郷土の歴史を未来に生かす事業実行委員会/編
郷土の歴史を未来に生かす事業実行委員会 2009.10
p.84-85に「文豪佐藤春夫が田路の神奈川県都筑郡中里村に(中略)やってきたのは、
大正五(一九一六)年春の桜の咲く頃(中略)最初に市ヶ尾の地蔵堂に賄い付きで住み、
五月二十日に朝光寺に移った。そして梅雨の頃、鉄の隠居の離れに移ったのである。
(中略)後に彼の出世作であり代表作となる「田園の憂鬱」の腹案はこの地で
できたのである。」とあります。
(5)『文学神奈川地図』 神奈川新聞社/編 有隣堂 1969
p.20~に「東京都境に近い港北区鉄(くろがね)町。横浜のはずれ、“町”の名が
まだまだ不似合いな農村地帯だが、その真ん中、バス停や駐在所、小学校が固まる
県道沿いの一角に、木の茂みに囲まれた草ぶき屋根の古い農家がたっている。(中略)
その青年が『見苦しい都会から柔らかに優しい自然の中に溶け込んでしまいたい』と
願ってきた若き日の佐藤春夫で、」とあります。
(6)『佐藤春夫読本』 河野龍也/編著,辻本雄一/監修 勉誠出版 2015.10 p.81-96
p.83~に「作品の舞台は、神奈川県都筑郡中里村、現在の横浜市青葉区の一部である。」、
「新しい住まいは朝光寺から日野往還を約三キロ北西に行った中里村鉄一一一五-二
(現青葉区鉄町一一一五)。豪農村田家一四代の信十郎が建てた隠居所の建物」とあります。
文学碑についても「春夫が大正五(一九一六)年から年末までを過ごした家の跡には
「田園の憂鬱由縁の地」と刻んだ根府川石の石碑が建てられている。春夫の甥・竹田龍児の書で、
昭和五七(一九八二)年七月建立。」とあります。
(7)『よこはま青葉区歴史めぐり 歴史をつなぐ散策マップ』
横浜市青葉区郷土史の会/編 横浜市青葉区郷土史の会 2009.3
歴史散策コースの紹介として、文学碑の写真と地図、地番が記載されています。
2 作品当時(1916(大正5)年)の様子について
当時(1916(大正5)年)の青葉区の様子については、以下の資料に記述があります。
(1)『現代日本文学大系 42 佐藤春夫集』 筑摩書房 1969
p.158-172「お絹とその兄弟」
「K県T郡のNといふ村」として、作家が住んでいた当時の中里村の様子が描写されてい
ます。
(2)『緑区文学遊歩 (現)緑区・青葉区・都筑区』 金子勤/著 2009 p.4-8,17-19
『田園の憂鬱』のほか『西班牙犬の家』、『お絹とその兄弟』など、青葉区内を舞台に
執筆された作品とともに、作家の様子が紹介されています。
(3)『名作モデル物語』 福田清人/著 朝日新聞社 1954. p.141-158
『田園の憂鬱』に登場する人物や地域の様子、当時の作家の状況について書かれています。
(4)『青葉のあゆみ』 郷土の歴史を未来に生かす事業実行委員会/編
郷土の歴史を未来に生かす事業実行委員会 2009.10
p.80に「青葉区域では隣接の長津田に大正五年に電灯が入り、大正十二年には中里村・
山内村と続いた。」、またp.82~に「青葉区域の人々は、横浜の中で最も交通機関と縁の
遠い生活をつい最近迄していた。(中略)この地域の人々は横浜鉄道の長津田駅、中山駅
迄歩いたり、自転車に乗ったりして利用した。」「それ迄に身近な乗り物は何であったか
と言うと、それは、乗合馬車・乗合バスであった。大正元・二年頃から荏田・有馬・馬絹・
溝の口・二子に乗合馬車が開通し、昭和初期迄続いた。」、p.83に「青葉区域での
乗合自動車は大正十年」とあります。
(5)『わが町の昔と今 5 激動の20世紀を残す写真集』 岩田忠利/著
とうよこ沿線編集室 2002.6
大正から昭和にかけての青葉区内の各地域について、風景や行事の様子を撮影した写真が掲載されています。
P.56には、作家が当時住んでいた家の写真もあります。
上記1、2と内容が重複しますが、下記の資料にも佐藤春夫と文学碑、当時の青葉区に
関する記載があります。
『中里郷土史』 中里郷土史編纂委員会/編 中里農業協同組合 1969 p.321-322
『横浜文学散歩』〔横浜の文化〕 「横浜文学散歩」編集委員会/編 横浜市教育委員会
1988.3 p.130-131
『神奈川文学その風景 38編の名作とその風景への散策ガイド』 朝日新聞横浜支局/編
かまくら春秋社 1987.12 p.36-39
『かながわの文学100選』 青木茂/〔ほか〕著 神奈川合同出版 1989.3 p.16-17
『横浜―文学の港 神奈川文学散歩展』 神奈川文学振興会 1989.7 p.18,巻末地図
『市民グラフヨコハマ No.21-25』横浜市市民局市民情報室広報センター/編
横浜市市民局市民情報室広報センター 1978 No.23のp.20-21
『市民グラフヨコハマ No.58』横浜市市民局市民情報室広報センター/編
横浜市市民局市民情報室広報センター 1986 p.12-13
『文学の中の神奈川』 神奈川県県民部広報課 1991.12 p.24-25
『横浜の近代文学 資料編』 横浜の近代文学研究会/編 横浜の近代文学研究会 1992 p.15-16
また、下記のwebサイトにも、文学碑の写真と現在の地番が記載されています。
AOBA デジタル・アートミュージアム
https://aobamuseum.city.yokohama.lg.jp/
(Web情報の最終確認日:2020年12月5日)
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
-
- 日本文学 (910 8版)
- 参考資料
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000292602