(1)『岡山県大百科事典 上 あ?そ』(資料①)の「吉備焼」の項目には、「笠岡市茂平に水川豊太郎が1911年(明治44)4月に築釜した焼き物。現在も長男義雄、次男勝治がそろって窯業に従事している。作品は地元の粘土を使った釉薬物の陶器で、民芸風の食器から花生、水指などの茶陶まで幅広い。」とある。『汎岡山』(1934年7月発行;資料②)などにも簡単な記載がある。
(2)(1)を元に、水川豊太郎氏について調査する。『岡山県歴史人物事典』(資料③)で「水川豊太郎」の項目を確認すると、豊太郎の号は「豊山(ほうざん)」、生没年は「1881・4・1~1961・12・2(明治14~昭和36)」、出身については「下道郡岡田村(現真備町)に生まれる」とある。
資料③には、このほか、吉備焼の由来や作陶活動について記載がある。記載内容は以下のとおり。
●吉備焼の由来について
「1905年(明治38)小田郡城見村茂平(現笠岡市茂平)に窯を築き、'07年(明治40)に初釜を焼く。」
「出生地に因んで吉備焼と名付けた。」
「吉備焼は地元の土を使い、江戸時代から現福山市引野で焼かれていた岩谷焼(いわたにやき)を範とした。」
とある。築窯の年は、資料①と違う。
●作陶活動について
「吉備焼窯元吉備製陶所を経営し、日常雑器および耐酸耐熱陶器などを静山して中国・四国地方に販売」
「戦後は長男陶芳(とうほう)とともに一品製作の美術陶器の作陶に専ら励んだ。吉備焼は現在、二男陶影(とうえい)、孫の3代目護山(ござん)に継承されている。」とある。
※参考資料として『吉備焼の由来』が記載されているが、当館に所蔵なし。また、所蔵館も確認できず。
(3)(1)と(2)を元に、豊太郎氏の長男・陶芳氏、二男・陶影氏、3代目・護山氏について調査する。
●陶芳氏について
『岡山県歴史人物事典』(資料③)には以下の記載がある。
・陶芳の本名は「義雄」、生没年について「1904・7・18~1988・12・17(明治37~昭和63)」とあり、「1922年(大正11)佐賀県立有田工業学校製陶科を卒業」、「1966年(昭和41)日本伝統工芸中国展で日本伝統工芸会総裁賞を受賞」などの記載がある。
●陶影氏について
・『現代の名工受章記念 水川陶影回顧展』(資料④)にある略歴に、「大正3年(1914)4月14日、現在の岡山県笠岡市茂平に、吉備窯水川豊太郎(豊山)の次男として生れる。本名勝治」、「昭和7年(1932) 金光中学校卒業。」、「昭和9年(1934) 京都高等工芸学校(現在の京都工芸繊維大学)窯業科に入り(…以下略)」とあり、「平成元年(1989) 労働大臣表彰<卓越技能者・現代の名工>を受ける。」などの活動が記載されている。
・水川陶影氏の追悼集『辰砂の赤を追って』(資料⑤)にある陶影氏の略年譜には、資料④と同様の記載があり、没年について「平成13年(2001) 3月自宅にて死去。」とある。
・陶影について、『岡山県人物・人材情報リスト 2015第2巻』(資料⑥)、『土と炎の競演』(資料⑦)や『きび野』(1992年9月発行;資料⑧)にも記載がある。
●護山氏について
『山陽新聞(笠岡・井原・浅口圏版)』〈2011年10月21日朝刊〉(資料⑨)によると、本名は善三郎(ぜんざぶろう)で、「吉備焼窯元3代目として、日本伝統工芸中国支部展、県美術展覧会などで活躍。2005年、『笠岡市文化の日記念表彰』受賞。」とあり、 2011年10月20日に「老衰のため死去」とある。
(4)『公報かさおか』2014年9月号(資料⑩)には、吉備焼総本家4代目水川創壤氏の記事がある。「2代目の陶芳、3代目の護山に続き、現在は4代目創壤が100年以上の伝統を継承」とあり、現在の活動状況や今後の展開などについてのインタビュー記事が記載されている。
資料⑩には、吉備焼の歴史について「吉備焼総本家は、明治38(1905)年に、初代・水川豊山(豊太郎)が笠岡市茂平で創業し、明治40年に初釜がひらかれました」と記載があり、資料③と同様の内容である。ただし、「豊山」は「とよやま」とふりがながふられており、資料③と読み方が違う。
このほか、資料⑩には、吉備焼の製法について記載があり、写真や図解などを用いて現在と昔の製法の違いについて詳しく説明がある。
(5)(4)を元に、4代目創壌氏について調査する。
●創壤氏について
インターネットで検索すると「吉備焼窯元」という吉備焼のホームページ(資料⑪)がヒットする。そこに、吉備焼の歴史のほか、「昭和三十三年 吉備焼窯元、三代目護山の長男として生まれる」、「昭和五十四年 愛知県立瀬戸窯業高校陶芸専攻科卒業」、「平成 十九年 京都建仁寺四頭茶会油滴天目茶碗百碗奉納」など、創壤氏の略歴が記載されている。