吉備津神社前の犬養木堂の銅像は、大正末頃から寿像建立の声が上がり、昭和7年の5・15事件後の昭和9年に朝倉文夫の製作により完成。昭和19年1月、戦時下の金属供出にともない一度は失われたが、昭和28年に朝倉氏が所蔵していた原型像をもとに再建されて現在に至る。
以上の犬養木堂像の原型完成・建立・供出・再建日を伝える新聞記事は次のとおり。
1934年4月20日 木堂像の原型完成日 (資料①)
1934年11月3日 最初の銅像建立日 (資料②③④)
1944年1月28日 木堂像の銅像供出日 (資料⑤⑥⑦)
1953年10月18日 戦後の再建日 (資料⑧⑨)
・昭和9年4月21日「読売新聞」(資料①)
「木堂翁の銅像 『怒れる虎の風格』に苦心 縁りの誕生日に出来上る」
→犬養氏の誕生日に銅像原型を完成させた朝倉文夫のコメント記事
・昭和9年11月2日「山陽新報」(資料②)
「木堂翁の除幕式 総裁代理等参列せん」
→11月3日除幕式の開催予告、列席予定者を伝える記事
・昭和9年11月4日「読売新聞」(資料③)
「故犬養木銅翁の銅像除幕式」
→11月3日除幕式当日の様子を伝える写真記事
・昭和9年11月3日「山陽新報」(資料④)
「けふいと盛大に 木堂翁銅像除幕式 縁故も深い吉備津神社境内に 参列者實に二千名」
→朝倉文夫氏、犬養氏ご遺族、岡山県知事、県会議長らの除幕式参列の様子を伝える写真記事
・昭和19年1月11日「合同新聞」(資料⑤)
「木堂翁の銅像出陣」
→木堂像の供出決定を伝える記事
・昭和19年1月23日「合同新聞」(資料⑥)
→「吉備津神社境内の犬養木堂翁の銅像供出祭(中略)を〔一月〕二十八日午後一時から」と伝える予告記事
・昭和19年1月30日「合同新聞」(資料⑦)
→「〔一月〕二十八日吉備津神社境内に建設されてゐる犬養木堂翁の銅像(中略)を非常回収した」と伝える記事
・昭和28年10月19日「讀賣新聞」(資料⑧)
→朝倉文夫所蔵の木堂像の原型をもとに銅像再建を伝える記事
・昭和28年10月19日「山陽新聞」(資料⑨)
「秋晴れの郷土に再び きのう木堂翁銅像の除幕式」
→銅像除幕式に参列した3000名を超える人々の様子を伝える写真記事
(元々の銅像は「昭和十九年軍に献納」と説明あり)
像の建立目的や制作にかかる本人承諾などの経緯は、次に掲げる「ミカド評論」、「木堂雑誌」(資料⑩~⑳)の記事に詳しい。
昭和2年12月25日「木堂先生壽像建設費募集趣意書」「壽像建設綱領」ほか(⑩)
昭和3年1月25日「木堂先生壽像建設會に寄す」(⑪)
昭和3年7月1日「木堂先生壽像建設に就て」(⑫)
昭和3年10月1日「木堂先生壽像建設 その後の經過」(⑬)
昭和4年3月1日「あこがれの岡山行」(⑮)
昭和4年4月1日「木堂先生壽像と西播木堂會」(⑯)
昭和4年9月1日「木翁銅像建設地鎮祭」(⑰)
昭和9年5月15日「四月廿日・木堂先生八十回誕辰 朝倉文夫氏邸内アトリエに於て」(資料⑱)
昭和9年9月15日「木堂先生銅像完成」(⑲)
昭和9年12月1日「木堂先生銅像除幕式」(資料⑳)
・昭和2年12月25日発行「ミカド評論」(資料⑩)には、全国の木堂會が発起者に名を連ねる「木堂先生壽像建設費募集趣意書」が掲載されている。その中で「先生も亦由來銅像建設を嫌忌せらるゝこと甚し、一個虚榮の象徴として時流に倣ひ以て銅像を建設するが如きは我らの断じて與みせざるところ」としながらも、「普選實現の一大記念塔として昭和の新政を祝福するに先生の像を假らんとする」などの建設理由が明かされている。また、「壽像建設綱領」では建設にかかる「寄附金募集要項」に加えて「昭和三年秋季に於て竣功せしむる豫定なり」と記載されている。
・昭和3年1月25日発行「ミカド評論」(資料⑪)の「木堂先生壽像建設會に寄す」には、木山巖太郎が大正12年初頭に銅像建設の意思を本人に確認した際の回答文を載せ、「碑だの、像だのは、以ての外の事にて是は固く止めたき考に御座候」と結ぶ一方、「客秋十月先生の邸を訪ふた砌、餘談此事に及んだところ先生も暗黙の間に鑄像了承の意を示されたのであつた」と説明している。
・昭和3年7月1日発行「木堂雑誌」(資料⑫)の「木堂先生壽像建設に就て」の中でも、岡山縣青年木堂會が「先生が許諾せられた」として建設寄付金を集めており、本記事中では「壽像の原型製作は東京美術學校水谷教授に委嘱」と記載されている。
・昭和3年10月1日発行「木堂雑誌」(資料⑬)では、「木堂先生壽像建設 その後の經過」として「壽像建設綱領」(資料⑩と内容の異なる)が定められ、「壽像は若干の保存費を添へて吉備津神社に獻納す」、「壽像の竣功は昭和四年春季の豫定なり」などの記載が見える。
・昭和4年2月1日発行「木堂雑誌」(資料⑭)の「消息」には、「橋本實郎氏 木堂先生壽像建設の用務を帯び、彫像家朝倉文夫氏と共に二十三日岡山に向ふ」とある。
・昭和4年3月1日発行「木堂雑誌」(資料⑮)の「あこがれの岡山行」では、朝倉文夫が塑像の制作依頼を受諾し、銅像建設予定地の吉備津神社を訪れる様子や像の台石となる万成石の掘出現場を視察した様子が述べられている。
・昭和4年4月1日発行「木堂雑誌」(資料⑯)の「木堂先生壽像と西播木堂會」によれば、「全國三十一の木堂會が發起して五萬圓の資金を募集することとなつた」とある。
・昭和4年9月1日発行「木堂雑誌」(資料⑰)には、昭和4年7月3日「木翁銅像建設地鎮祭」の様子が報告されている。
・昭和9年5月15日発行「木堂雑誌」(資料⑱)には、「四月廿日・木堂先生八十回誕辰 朝倉文夫氏邸内アトリエに於て」と題した「木堂先生銅像原型」前で撮影された集合写真が掲載されている。
・昭和9年9月15日発行「木堂雑誌」(資料⑲)の「木堂先生銅像完成」によれば、上野公園内の東京府美術館で開催される「朝倉塾彫像展覧会」(1934年10月18日~10月29日)に完成した犬養木堂像の出陳予告があり、「十一月初旬を以て當初の豫定の如く之を岡山市外吉備津神社の社側に建立せらるることとなつて居る」と述べられている。
・昭和9年12月1日発行「木堂雑誌」(資料⑳)の「木堂先生銅像除幕式記要」には、「岡山縣青年木堂會が木堂先生の壽像建設を主唱したのは昭和三年であった」とあり、口絵ページの写真とあわせて昭和9年11月3日「木堂先生銅像除幕式」の模様を伝えている。列席者コメントとして、古島一雄は「吾々が犬養翁の徳望風格を慕つて壽像の建設を計畫し着々準備中兇弾のため犬養翁を失ひ壽像が變じて銅像の建設となりいま茲に銅像除幕式を擧げるに至つた」と述べ、三宅希峰は「大正晩年以来、銅像建設問題に關し、直接先生の御心境をも伺ひ、數度その渦中に入りしことある丈け、感慨一層深きを覺える」と語っている。
・『八十路の憶出』(資料?)の「木堂翁の銅像と朝倉文夫」では、東京木堂會の代表であった著者らが寄付金を募る前に木堂像の制作を朝倉文夫に依頼し、像の完成までは関係者の批評を一切受けないという条件で朝倉氏が受諾した経緯、その後の寄付金集めの苦労などが回顧されている。
犬養自身の銅像建立に対する心境は、次の書簡からもうかがうことができる。
・『新編犬養木堂書簡集』(資料?)収録の「銅像ハ平ニ断ハリ置候」と題する犬養毅の書簡(年代不明)では、「生前ニ銅像を立るなど小生の甚た感服せざるものニ候」と本人は述べている。
・『犬養木堂書簡集』(資料?)収録の小橋藻三衛宛の書簡(大正14年8月)でも、銅像設立に対する所感が述べられている。
「敬啓 銅像の事ハ新聞にて知りしも未た何人よりも通知し来たらす果して事実なるや否も確ならす
果して其事ありとせハ作者の何人ニ定るかハ発企人の意見ニて決するものニ候小生の容喙する筈ものにあらす
實ハ生人の銅像とハおかしなものニ候」