レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2022/08/11
- 登録日時
- 2022/09/18 00:30
- 更新日時
- 2022/09/18 00:30
- 提供館
- 宮城県図書館 (2110032)
- 管理番号
- MYG-REF-220065
- 質問
-
解決
善応寺(宮城県仙台市)の入り口にある「蒙古の碑」が作られた経緯を知りたい。
- 回答
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下記の資料に記述がありました。
※【 】内は当館請求記号です。
資料1 『白い国の詩』東北電力株式会社広報室, 462号(1995)【PK050/シ】
「蒙古之碑(仙台市宮城野区燕沢善応寺境内) : 謎を含めた供養碑」の項
p.14 「(前略)この碑は弘安年中(鎌倉時代)の建立といわれ,もと燕沢地内の塩釜街道安養寺跡にあったがこの地に移された。(中略)弘安の役の際,元軍の戦死者追善のために僧祖元によって建てられたものと伝えられている。(後略)」
また,下記の資料ではいくつかの説について記述がありました。
資料2 『埋もれ火』街道探訪会, 7号(1944)【PK201/ウ】
「蒙古の碑思考」-「蒙古の碑のまとめ」の項
p.20 「(前略)弘安年中日本に攻撃をしてきた元軍十万が玄海灘で戦没されてからの一周忌にあたり,僧祖元和尚が追修の碑として立てたというのが,一般的な説と云われております。」「杉村顕道氏『仙台名勝めぐり』の一説には 他説によると,一道士が邸偶に草を刈って潜埋していた髑髏を切断したので,これを悲しみ塚を築き,碑を立てたともあります。」
p.21 「文治五年(一一八九)に源頼朝が奥州征伐で,藤原泰衡を討ったそのとき,和泉三郎忠衡の姫はまだ五歳だったが,忠衡の家臣石塚民部守時の妻“小萩”が観円僧都をたょつて(原文ママ)清水寺(加美郡色麻町)に潜伏したのです。その後,亡くなった姫や守時,藤原三代の菩提を弔うために,小萩が建てたという説もあります。」
p.21 「今まで編者が調べて見たところでは,弘安五年以降東北の地に,蒙古軍兵を供養しようとして,立ち上がった史実を立証するものは一つも見当たらず,むしろ悲劇をうけた蝦夷の遺族らが,弘安の悲劇を思い起こし,供養のために書き加えたものと考えても,不思議がなかろう―。(後略)」
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 石彫 (714 9版)
- 参考資料
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- 東北電力 東北電力株式会社広報室. 白い国の詩 462号. 東北電力株式会社広報室, 1995【PK050/シ】:
- 街道探訪会. 埋もれ火 7号. 街道探訪会, 1944【PK201/ウ】:
- 宮城野区地元学講座編集委員会/編. 燕沢・小鶴. 宮城野区民ふるさと創生事業実行委員会, 1993.3【K292.5/ツ2】:
- 仙台市史編さん委員会/編. 仙台市史 特別編5. 仙台市, 1998.3【K225/セ1-13/26】:
- 日本石造物辞典編集委員会?編. 日本石造物辞典. 吉川弘文館, 2012.12【714.03/ニホ2012.Z/R】:
- キーワード
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- 石碑
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000321427