レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2022年2月9日
- 登録日時
- 2022/02/15 14:08
- 更新日時
- 2022/02/18 12:38
- 管理番号
- 県立長野-21-232
- 質問
-
未解決
飛騨高山では家の造りが合掌造りで、屋根裏で家蚕(かさん)が行われていたと思う。
飛騨高山では製糸工場がなかったから長野県内の製糸場へ、製糸委託の依頼があったかどうか知りたい。
- 回答
-
飛騨高山から長野県内の製糸場へ製糸の委託があったという旨の記述は確認できなかった。
明治10年代、長野県の製糸家は他県から原料繭を購入していたという記述があり、飛騨からも購入
していた可能性はあるが、明確な記述が確認できず定かでない。また、県外で長野県内の製糸場で働
く労働者の募集を行っており、雇用もされていた。
『長野県史 通史編近代二』第8巻 長野県編 長野県史刊行会 1989【N209/11-4/8】
第二章 蚕糸王国長野県と諸産業 第三節 製糸業の発展と工場法 p.154-185
一 製糸業の発展 長野県製糸家の県外進出 p.156-157
(前略)
県外工場の設立は長野県製糸業の発展の必然的な結果であった。諏訪地方に集中的に設立さ
れた製糸業の原料繭を地元で調達することはできず、はやくも明治十年代に他県から大量に購
入していた。各地で購入した繭は、はじめ生繭で輸送されていたが、生繭は輸送中の発蛾や損
傷もはげしかった。そこで製糸家は購入拠点に乾燥場や倉庫を設け、繭の安定的な確保をくわ
だてた。また、製糸業はスケールメリットが小さい工業であったため、規模拡大をはかるより
も、購繭地域の乾燥場などをもとに県外工場を設立することによって事業を拡大した。
こうした県外工場では、
釜数百十八個に過ぎざるも悉く四口繰片倉式精鋭を以て居り、(中略)工女は信州、飛騨、
越中各等分にて、工女は勿論男女雇人を通じて土地人は一人も採用されず、要するに懦弱
放逸に馴れて到底諏訪式勤勉に堪へざるためならん(『信濃毎日新聞』明治十二年一月二
十五日)
と報じられているように、工女をはじめとする従業員は本拠地と同様な構成にし、繰糸設備も
「諏訪式」を採用したのであった。
(後略)
二 製糸家と工女・農民 工場法の施行 p.165-166
(前略)
諏訪・上高井・埴科・小県郡など製糸業の発展した地域では、郡外や県外から多数の工女を募
集しなければならなかった。(中略)また、山梨・岐阜県は諏訪・上伊那郡など南信・中心地
方に、新潟・富山県は諏訪郡とならんで上高井郡に多くの工女を供給していた。
(後略)
『長野県史 通史編近代一』第7巻
第四節 器械製糸の発展 p.283-310
第六章 蚕業革命期の長野県経済の発展 第四節 製糸業の発展と製糸労働者
三 製糸労働者の実態 急増する製糸労働者 p.648
(前略)
このような製糸業の急速な発展によって、長野県の製糸労働者は、他県をふくむひろい地域
から募集・雇用されるようになってきた。県下の中心的な製糸業地である。諏訪郡平野村の四
十年をみると、岐阜・山梨・富山など他県からの雇用が急増している。遠隔地からの募集には、
明治三十年代の中央線をはじめとする鉄道の開通も大きな影響をあたえた。しかし、岐阜県の
飛騨地方からは野麦峠をこえ、松本盆地からは塩尻峠をこえて諏訪地方へはいるというように、
製糸労働者たちは過酷な難路にたえなければならなかった。(後略)
下記資料に、繭取引の処理方法の中で「委託製糸」というキーワードが出てくるが、具体的な意味
合いや取引先等についての記述は確認できなかった。
『戦間期の蚕糸業と紡績業』上野裕也著 日本経済新聞社 1994【632.1/ウヒ】
第三章 蚕糸業の産業組織と政府の規制・介入 1. 蚕糸業の産業組織と取引関係
1.1 養蚕業と繭市場の組織 p.62
昭和年代に入って,繭市場と繭取引の関係はしだいに秩序づけられてきた。繭取引の形態は
もともと複雑で,各種各様であったが,所管官庁である農林省は,繭取引に関する実態調査上
と行政上の便宜を考えて,次のように分類した。第1に処理方法から分類して,生繭販売,乾
繭販売,組合製糸供繭,委託製糸,その他,の5形態とし,さらに生繭販売については,個人・
共同別,販売場所別,検定取引別,特約取引,その他別に分類した。
高山町では、明治6年高山町一之町の生糸稼人佐野屋長次郎(長二郎)が洋式器械製糸場を高山町
に設置することを企て、翌年7年に水車を動力とする48人繰製糸場を設立している。設立にあたり長
次郎は明治5年、信州諏訪郡高島町の土橋半三郎のもとへ赴き、深山田製糸場を見学している。
『岐阜県史 通史編 近代中』岐阜県編・刊 1970【215.3/ギフ/1-5-2】
第四章 明治前半期の諸産業 第二節 製糸業 二 明治初年の製糸業(飛騨)
洋式製糸法の導入 p.740-741
以上のように飛騨にようやく座繰器の導入がはじめられた頃、明治政府は生糸の品質向上と
生産拡大を意図して、洋式製糸法の導入指導を協力に開始した。
すでに明治四年には、小野組により東京築地に六〇人繰イタリー式機械製糸場が、また勧業
寮自らの手で東京赤坂鍋島家邸内に百人繰製糸工場が設けられ、翌五年には、群馬県富岡にフ
ランス式官営模範製糸場が設けられている。
筑摩県もまた、中央政府の洋式器械製糸法移植政策を管下に推進していった。同県管下の信
濃は、当時全国でも先進的な養蚕製糸地帯であったが、飛騨はそれよりもいちじるしく後進的
な性格を帯びていた。
したがって、県は飛騨にたいしては、信濃地方から新しい製糸技術を摂取導入するよう指導
を行なった。
この行政指導の最初のあらわれは、飛騨に座繰器が導入されてまだいくばくも経ない明治五
年に、早くもみることができる。
佐野長二郎の「意見書」 p.741-742
この年、高山町一之町の生糸稼人佐野屋長次郎(佐野長二郎)は、県高山支庁の内達を帯し
て、欠之上町の大工吉蔵と糸挽職女二人とをつれ、信州諏訪郡高島町土橋半三郎の許におもむ
いた。
当時土橋は、明治四年小野組が東京築地に設置したイタリー式製糸機械を写し取って模造し
た百人繰機械を深山田に設置し操業を開業していたが高山支庁は、佐野らにこの土橋の洋式製
糸場の見学、「製上り之生糸并機械弁利筋見分」を内達し、飛騨への洋式製糸導入の端緒とし
たのであった。(中略)
佐野は、この旅行から、土橋方の機械を図面に写し取り、連れていった大工に機械製造方法
をのみこませ、さらに同行の糸挽女二名に、この機械による繰糸法などを覚え込ませるなど、
機械模造にとりかかる用意をして帰ってきた。
こうして彼は、ただちに同業森佐兵衛・山田清九郎外一名と語らい結社を作り、翌六年の新
繭に間に合うよう急ぎ洋式大型機械場新設にとりかかった。六年四月には、すでに洋式製糸機
械も概略完成し、信州松本に発注した煮繭・繰糸鍋などの附属器具も到着し、あとは動力とな
る水車の運転に適切な用地を選定するだけの運びになっている。
(後略)
洋式器械建設の障害 p.743
しかし、右の事情の背景には、洋式器械建設をめぐる特殊な障害が存在していたのであった。
佐野の願書は、これについて次の二点をあげている。
第一は、新設洋式機械の動力となる水車を運転するのに適当な用水便利の地を、高山町近在
で二、三か所選定し交渉したにもかかわらず、その地の所有者がどうしても機械設置に肯じな
いという事情であった。
第二は、洋式機械新設にたいして種々の風聞が流れていることであった。(中略)佐野が内
々で取調べたところでは、その風説は「当国生糸については、県の手厚い援助ですでに品質も
向上し、隣りの岐阜県でも、生糸製法は高山に見倣えという諭告をだしているほどである。だ
からこの上さらに新しい製法を実施する必要はない」、さらには「佐野が悪だくみをもって社
中を勧誘し、市中で糸の賃挽きを行なっている者の生活を脅かす洋式機械設置を企てている。
その罪はすべて発起人である佐野一人にある」などという内容のものであった。
(後略)
花里村器械製糸場設置 p.744
しかし、この佐野に代って、製糸器械社中の惣代となった森佐兵衛と山田清九郎は、そのま
ま洋式機械設置の企てを進め、五月一二日、花里村字川原地内に水車運転にたいする地元の了
承を得て、八〇人繰りの洋式器械製糸場を設置することに成功し、その年から運転を開始し、
九月にはその製品見本を支庁に上程した。
さきの佐野願書が述べたように、各自が別々に自宅に製糸場を設けるという形は、結局はと
らなかったのである。
(後略)
器械製糸場の簇生 p.745
この森佐兵衛らによる花里村への洋式製糸器械設置を端緒とし、翌七年には高山町に直井佐
兵衛、岩田久次郎が、群馬県富岡官営製糸場の装置を模して、水車を動力とする四八人繰製糸
場を設立し、上、信州で繰糸法の伝習をうけた工女を使用して営業を開始した。
(後略)
高山町での器械製糸場の発展についての記述も見つける。
『岐阜県史 通史編 近代中』岐阜県編・刊 1970【215.3/ギフ/1-5-2】
第四章 明治前半期の諸産業 第二節 製糸業 二 明治初年の製糸業(飛騨)
発展期の出発点 p.750-751
高山町の器械製糸 p.764-765
p.752に「第20図 岐阜県器械製糸場の分布(明治13年)」があり、高山町にもいくつかの製糸場
が示されている。
- 回答プロセス
-
調査時代について
長野県内で製糸場が設立されたのは1872(明治5)年の深山田(みやまだ)製糸場(諏訪郡上諏訪
(現諏訪市))が最も早いとしているため、調査範囲はそれ以降からとした。
1 『岐阜県史』を調べる。
回答に記載した記述を見つける。
2 『高山市史 復刻版 上』高山市編・刊 1981【N250/17/1】を調べる。
飛騨の建築について以下の記述を見つける。
第六編 觀光 第十二章 高山地方民家の建築 p.708-710
藤原義一著日本住宅史(昭和十八年十一月二十日東京都神田区弘文館発行)に飛騨の建築
について次のように述べてある。
美濃地を奥へ更に飛騨に入るに従つて、板屋や茅葺屋根の立派な家を多く見ることが出来
る。板屋に於ては二階建切妻造、妻の一方又は二方三方に一階の廂を附し、屋根の勾配緩く、
軒及び妻軒を深くさし出し屋根に石をのせ垂直の柱に水平の貫を通し、軽快粛酒な、イタリ
ーのヴイラかスヰスのコツテーヂを思わせる。
地棟に合掌を使用し、合掌下端が軒先に突出して軒桁を受け、深い軒を支へ、太い棰を粗
く配布し、板屋根を組み、石を置く。(中略)
醸造を業とする一旧家を例にとれば、居間の他に立派な客座敷が造られ、床・附書院・違
棚などが堂々と設けられ、江戸時代末期に於ける書院造と完全に合体した町屋の特色を有し
ているが、建築物に最も注意せられるものは、柱をはじめとする用材の立派なことゝ、土間・
台所・中オイエ(主要な居間のこと)と称するあたりの屋根裏の小屋組を見せた美事な構造
である。
(後略)
3 『長野県史』を調べる。
回答に記載した記述を見つける。
4 日本十進分類法630(蚕糸業)、郷土分類N630(蚕糸業)の資料を調べる。
5 『戦間期の蚕糸業と紡績業』から得た「農林省蚕糸局」のキーワードで関連資料を調べる。
当館蔵書検索で検索しヒットした資料を調べるが、質問内容に該当する記述は確認できなかった。
<調査資料>
・『岐阜県史 史料編近代3』岐阜県編・刊 1999【215.3/ギフ/2-3-3】
・『岐阜県史 史料編近代4』岐阜県編・刊 2003【215.3/ギフ/2-3-4】
・『高山市市 復刻版 上』高山市編・刊 1981【N250/17/1】
・『高山市市 復刻版 下』高山市編・刊 1981【N250/17/2】
・『協同の源流を拓く』組合製糸研究会編著 楽游書房 1979【N639/9】
・『近代養蚕業の発展と組合製糸』平野綏著 東京大学出版会 1990【N631/16】
・『近代における諏訪地方製糸業発達史試論』武田安弘著 諏訪教育会諏訪郡史編纂部 1973【N630/51】
・『恵那の蚕糸業のあゆみ』恵那シルクの会編 2011【N632/17】
・『蚕糸業要覧 昭和4年版』農林省蚕糸園芸局編 日本蚕糸広報協会 1929【630/34/1】
・『蚕糸業要覧 昭和12年版』農林省蚕糸園芸局編 日本蚕糸広報協会 1937【630/34/2】
・『蚕糸業要覧 昭和45年版』農林省蚕糸園芸局編 日本蚕糸広報協会 1970【630/34/3】
・『日本近代蚕糸業の展開』上山和雄著 日本経済評論社 2016【N632/28】
・『長野県製糸業史研究序説』武田安弘著 信毎書籍出版センター 2005【639.02/タヤ】
・『日本近代製糸業の成立』矢木明夫著 御茶の水書房1960【630/33】
・『製糸業の展開と構造』北島正元編 塙書房 1970【N639/7】
・『組合養蚕の話』片田銀五郎著 明文堂 1927【631/21】
・『両大戦間期の組合製糸』田中雅孝著 御茶の水書房 2009【631.6/タマ】
・『流通史 2』古島敏雄編 山川出版社 1975【675/40/2】
・〔日本の製糸技術〕高山社
島崎昭典「1.技術主導型生産体制を確立した高山社」
中村榮二「2.思い出」
河瀬和人「3.ふるさと」
『岡谷蚕糸博物館紀要』第3号 岡谷市教育委員会 1998 p.31-40
・聞き取り調査の記録 岡谷の製糸業(7)飛騨高山より[ヤマキチ]小口製糸工場へ
『岡谷蚕糸博物館紀要』第7号 岡谷市教育委員会 1998 p.8-11
・髙梨健司「片倉製糸の蚕種製造委託と地方蚕種家」『専修大学社会科学年報』46号p.53-83
※専修大学学術機関リポジトリで公開されている。(最終確認日:2022年2月15日)
飛騨について
『日本国語大辞典 11』小学館国語大辞典編集部編 小学館 2001【813.1/シヨ/11】
p.295-296「ひだ【飛騨】」
東山道八か国の一国。大化改新後に成立。南北朝・室町時代以後、佐々木・京極氏が守護。豊
臣秀吉の命により金森長近が三木氏を征服した後、高山城を築城し、江戸初期まで金森氏が支
配江戸中期以降は幕府の直轄地。廃藩置県後は筑摩県に属し、明治九年(一八七六)岐阜県東
部となる。飛州。騨州。
器械製糸について
『長野県百科事典』信濃毎日新聞社開発局出版部編 信濃毎日新聞社 1981【N030/2】
p.197 きかいせいし 器械製糸
狭義には座繰り製糸と自動製糸の中間の技術段階の生糸生産をいうが,広義には自動製糸段階
も含めて器械製糸という。狭義の器械製糸は明治初期,欧米から導入された製糸技術であり,
これはまず,藩営前橋製糸所,官営富岡製糸場,小野組築地製糸場などにはじまり,以後それ
らを簡易化して器械製糸業が普及した。長野県では,1872(明治5)年諏訪郡上諏訪(現諏訪市)
に設立された深山田製糸場がもっとも早く,雁田製糸場(1873年,現上高井郡小布施町),中
野製糸場(1873年,現中野市)、六工社(1874年,現長野市松代町),中山社(1875年,現岡
谷市),長野県営製糸場(1878年,現長野市)など相次いで設立された。
家蚕について
『日本国語大辞典 3』小学館国語大辞典編集部編 小学館 2001【813.1/シヨ/3】
p.571「かさん【家蚕】」
野生のものに対し、室内で飼育する蚕(かいこ)。↔野蚕。
- 事前調査事項
- NDC
-
- 蚕糸業 (630)
- 参考資料
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長野県 編 , 長野県. 長野県史 通史編 第8巻 (近代 2). 長野県史刊行会, 1989.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I002597581-00 -
上野裕也 著 , 上野, 裕也, 1926-2016. 戦間期の蚕糸業と紡績業 : 数量経済史的アプローチ. 日本経済新聞社, 1994.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002373300-00 , ISBN 4532130751 -
岐阜県/編 , 岐阜県. 岐阜県史 通史編[7]. 岐阜県, 1973-00.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I109144893-00 -
高山市/編 , 高山市. 高山市史 復刻版 上. 高山市.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I059269523-00
-
長野県 編 , 長野県. 長野県史 通史編 第8巻 (近代 2). 長野県史刊行会, 1989.
- キーワード
-
- 長野県-蚕糸
- 信州-蚕糸
- 製糸
- 飛騨
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000312149