レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2021/4/14
- 登録日時
- 2021/09/11 00:30
- 更新日時
- 2021/09/14 08:43
- 管理番号
- 北方 21-0013
- 質問
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解決
1 1945年10月に、民俗学者の宮本常一が大阪空襲で焼け出された市民を、問寒別に移民として引率しているが、人数(氏名など)、場所、その後などが分かる資料(行政資料など)はあるか。
(『問寒別町史』は、貴館所蔵確認)
2 戦災者の移民関連で
・「集団帰農者の栞」北海道庁・戦災者北海道開拓協会
・「北海道疎開者戦力化実施要項」
- 回答
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1 回答資料1 p.696には、「大阪府の人たちで戸数は6戸である。終戦後の10月に来て問寒別の国有未開地や北大演習林地に入った。
氏名は次のとおりである。高島正重(37年)、林田幸吉(36年)、鈴江 威(?年)、稲嶺盛次(23年)、中里正清(23年)、橋本 要(23年)。なお( )は離農年である。」と記載。
参考資料2(1950発行)の折込図の「問寒別区域図」では、おおまかな大学演習林界が掲載。
回答資料2 p.195-198「大阪隊を引率した宮本常一」には、『民族学の旅』(2000)を引用して当時の様子が記述されている。
回答資料3 p.125-139「第11章北海道 問寒別・新十津川 1997年5月と6月の旅」では、昭和20年に送りこむことになった場所に訪問し、
一部の入植者のその後について聞き取りを行っている。
回答資料4 p.116-124 第7章 食糧確保の使命「問寒別へ」で。実情について詳しく書いている。
『幌延町史』では、大阪からの入植は、戦争が終わる前で六戸、
『問寒別郷土史』では、戦後の昭和20年10月で戸数は12戸だったという記述があり。
さらに、「しかし、両著の編集に関わった加藤氏によれば、『幌延町史』にある、大阪からの入植は敗戦前だったという記述は何かの手違いで、
彼らがやってきたのは間違いなく戦後だったという。これらを総合すると、宮本が昭和20年10月24日に問寒別の駅頭で見送ったのは十二戸だったが、まもなく半分が北海道を離れ、六戸だけがそれからしばらく開拓原野にとどまったものと考えられる。」としている。
2「集団帰農者の栞」、「北海道疎開者戦力化実施要項」については、回答資料5に含まれている。
- 回答プロセス
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(参考資料)
1 幌延町史 白山 友正∥編 天塩郡幌延町 1974 214.51/HO ;
2 問寒別郷土史 上田 義雄∥著 上田義雄 1950 214.51/TO ;
- 事前調査事項
- NDC
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- 農業経済・行政・経営 (611 7版)
- 参考資料
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- 1 新幌延町史 新幌延町史編さん委員会∥編 幌延町 2000.12 214.51/HO/イ
- 2 拓北農兵隊 石井 次雄∥著 旬報社 2017.1 611.24/TA/イ
- 3 宮本常一を歩く 下巻 毛利/甚八?著 小学館 1998.5 380.1/MI/2
- 4 宮本常一が見た日本 佐野/真一?著 日本放送出版協会 2001.10 289.1/MI
- 5 北海道集団帰農者書類 [出版者不明] [出版年不明] 611.24/HO
- キーワード
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- 移住 宮本常一 大阪府 問寒別
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事項調査
- 内容種別
- その他
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000304547