レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2018/11/16
- 登録日時
- 2018/12/23 00:30
- 更新日時
- 2018/12/23 00:30
- 管理番号
- 6001035766
- 質問
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解決
大和川付替え後、旧大和川流域で綿栽培が行なわれるようになった背景について知りたい。
- 回答
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以下の資料によると、旧大和川流域の土壌が綿栽培に適しているため、行なわれるようになったとのことです。
・『河内木綿と大和川』(山口之夫/著 清文堂出版 2007.4)
p.309「綿作に適した土壌は砂地で湿気のない土で、砂交りの真土が良いとされる。河内では旧大和川の河道あとは砂の畑地で稲作ができず、灌水に努力すれば絶好の綿作地となった。」
・中島峰広「わが国における江戸後期~明治前期の商品作物の畑地灌漑」 『歴史地理学』161(歴史地理学会 1992-12)p.2-27
p.21「河内の旧大和川下流平野では,新川が開削された後,旧本流と支流であった長瀬川と玉串川が築留樋組の用水路として利用されるようになったが,旱魃時には大和川の河流がほとんどみられず,水不足が深刻であった。このため,受益上流部(等高線10m付近までの地域)の乾田(二毛作田)では田畑輪換により,受益地下流部(等高線5~10mの地域)の半田では畑の部分が拡大され,綿が栽培される土地利用が行われるようになったのである。」
・『地場産業の地域』(板倉勝高/編 大明堂 1982)
p.83「1885年ころの旧若江・渋川郡では,旧大和川流域に綿作地域が発達し,畑地は,長瀬川と玉串川の旧大和川河床上と両河川間の海抜標高5m以上の範囲に多く分布していた.とくに長瀬・玉串両河川間の畑地は,いわゆる「半田」の形態をとって綿作に供されていたものである.「半田」綿作地帯は,低湿地でしかも灌漑用水不足という地域的条件から,他作物への転換が困難で,こうした条件が明治中期以降の急激な綿作後退の渦中にあっても,最後まで在来綿の生産地域として残存した.」
・『流域をたどる歴史 5 近畿編』(豊田武/[ほか]編 ぎょうせい 1978)
p.165「若江・渋川両郡を中心とする古大和川流域は、大坂に近く、剣先船によってこれと結ばれていたので、最も農産物の商品化を進展させうる経済的条件を具備していた。また、前述の耕地の立地条件や、古大和川の氾濫によって堆積した砂質の土壌などの自然条件は、稲作を不安定にする反面、綿作を発展させる条件となっていた。」
[事例作成日:2018年11月16日]
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 産業史.事情.物産誌 (602 8版)
- 参考資料
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- 河内木綿と大和川 山口/之夫∥著 清文堂出版 2007.4
- 歴史地理学 歴史地理学会 [編集] 歴史地理学会 160-163
- 地場産業の地域 板倉/勝高∥編 大明堂 1982
- 流域をたどる歴史 5 豊田/武∥[ほか]編 ぎょうせい 1978
- キーワード
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- 旧大和川(キュウヤマトガワ)
- 綿栽培(メンサイバイ)
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- その他
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000249114