1 『神戸市衛生施設大観』(問い合わせ番号:PV000036355)に関連の記載あり 157頁
「明治二年に居留地前町公園、今の三宮郵 便局の敷地付近にあった墓地、火葬場を廃止」「明治三年相生町に在った火葬場(中略)を廃し」他に移転したとあるので、それまでには火葬場が存在したとわかるが、それぞれがいつ始まったものかは記載がない。また、この「火葬場」自体が現在の斎場のような恒久的な建造物をもつものなのか、単に野焼きする場所としての火葬場なのかも記述からだけでは判断できない。
『新修神戸市史 行政編Ⅱ』(PV7000115148) 389頁
「市政発足以来の懸案であった埋火葬場の問題が紆余曲折の末、やっと明治 二十年代末に埋葬場は市営で、火葬場は民営でおこなうことで決着した。(中略)春日野・夢野両火葬場は(明治34年に設立された)神戸九宝株式会 社によって経営されることになった」とあり、近代的な火葬場のはじまりはこのあたりである可能性がある。
『近代火葬の民俗学』 (PV7200139465)にも、全国的に見た場合、明治に入り人口多いところから建造物としての火葬場が多く作られるようになったと読める記述あり。
『神戸市衛生施設大観』には明治/大正の火葬場や墓地の変遷等についても詳しく記載されているので、このあたりのことをお知りになるのには役立 つと思われる。この本の刊行当時(大正15年)最新鋭であった市立神戸火葬場(長田区)については図面等を含め詳細な記録があり。
また『衛生局のあゆみ』(PV0000254845)にも神戸市の火葬場について記載あり。
2 火葬場ができる以前でも、野焼きのかたちで火葬は行われている。インド流の葬法(埋めない方式も多いので埋葬ではなく葬法)分類は、四葬と呼ばれ火葬・土葬・水葬・林葬に区分され、基本的には火葬場以前の日本の葬法もほとんどがこの中に含まれる。このなかの林葬は林の中に放置して遺骸を鳥獣
に施す方式なので遺棄葬(風葬・鳥葬もこの中に含まれます)と同意になる。
平安時代末期の作と考えられている『餓鬼草紙』 (PV0005110243)には遺棄葬の状況が図像で描かれている。
ただ、葬法にはさまざまな要素があり、分類の仕方によって、別の名称で呼ばれることもある。
たとえば、土葬のうち、遺骸を埋める場所(参り墓)と墓参りする石塔等が別の場所(参り墓)にあるものは特に「両墓制(りょうぼせい)」と呼ばれる。また一度埋葬して骨化した遺骸を掘り出し、ツボなどの容器に納めなおす「洗骨」と呼ばれるものもある。
葬制についての参考資料
『葬制の起原』(PV0000229760)
『日本葬制史』(PV7200242219)
『近代火葬の民俗学』(PV7200139465)など。
なお、記録に残る火葬の初出は700年です。『続日本紀』に奈良時代の僧、道昭が荼毘に付され、これが初めての火葬であると記載されています。以後、近代に至るまで仏教に基づく葬送として火葬が行われてきたが、おなじ仏教であってもすべて火葬であったわけではなく、宗派により土葬であったり火葬であったり方式は異なっている。江戸時代であれば、浄土真宗と真言宗の一部は火葬、他の宗派の多くは土葬だった。火葬する場合は寺院ごとに野焼きなどのかたちで行われていた。
神戸市内であれば、西区の長谷遺跡や北区の行原遺跡などで中世に火葬を行った施設と考えられる遺構が検出されている(長谷遺跡『昭和58年度 神戸市埋蔵文化財調査年報』[PV0000691276]・行原遺跡『平成3年度 神戸市埋蔵文化財調査年報』[PV0009508867])。
こういったものは文字の記録に残ることが少なく、文献資料で具体的な状況を確認することはなかなかできない。一方、カマド塚と呼ばれる火葬施設など、日本において仏教渡来以前にも別系統の習俗として火葬を行っていたことが発掘調査により判明している。
3 『新修神戸市史 行政編Ⅲ』(PV7000115148) 445ー446頁 市街地市営墓地の統合計画によって春日野と夢野の火葬場と墓地が鵯越斎場に移転改葬されたと記述されてる。昭和38年から造成が開始され、火葬炉30基を持つ施設として昭和49年4月に開場した。春日野からの移転は昭和38年4月にはじまり昭和41年3月に完了、翌年3月に火葬場と墓地が廃止され、夢野の移転は昭和42年に始まり、47年4月に墓地が廃止されたという記述があり、これに従えば、春日野墓地からの改葬墓のある地点が最初の墓地だということになります。