レファレンス事例詳細(Detail of reference example)
[転記用URL] https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000257837提供館 (Library) | 所沢市立所沢図書館 (2310110) | 管理番号 (Control number) | 所沢柳瀬-2019-003 | |||||||||
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事例作成日 (Creation date) | 2017/08/16 | 登録日時 (Registration date) | 2019年06月27日 00時30分 | 更新日時 (Last update) | 2019年06月28日 09時40分 | |||||||
質問 (Question) | 日本の稲作のルーツは中国長江流域にあると聞いたが、それについて書かれた本を読みたい。 | |||||||||||
回答 (Answer) | 以下の資料に日本の稲作のルーツが長江流域にあると記載がありました。 〇『世界大百科事典2』 平凡社 1988年 〇『長江文明の探求』 梅原猛/共著 安田喜憲/共著 稲盛和夫/監修 新思索社 2004年 〇『中国長江文明と日本・ベトナム』 諏訪春雄/[ほか]著 勉誠社 1996年 〇『「邪馬臺」は「やまたい」と読まず』 李国棟/著 白帝社 2005年 〇『稲の日本史』 佐藤洋一郎/著 角川書店 2002年 〇『稲のアジア史 3 』渡部忠世/[ほか]著 小学館 1987年 〇『稲作伝来』 森岡秀人/著 岩波書店 2005年 | |||||||||||
回答プロセス (Answering process) | 1 参考資料内容確認。 百科事典で「長江」「稲作」について調査。以下の項目に記載あり。 〇『世界大百科事典2』 平凡社 1988年 p491「稲」の[起源と伝播]の項目に「長江(揚子江)河口域より対馬海流に乗って南朝鮮を経由するかあるいは直接に北九州に伝わったという説」という記載あり。 △『世界大百科事典18』 平凡社 1988年 p355「長江」の項目に「寧波(ニンポー)付近の河姆渡(カボト)遺跡では陶器や骨のほか、モミなども出土、約6000余年前のものといわれ、イネ栽培が長江下流で行われていたことを示す。」との記述あり。 2 所蔵資料の内容確認。 「長江」「稲作」などをキーワードに所蔵検索。 〇『長江文明の探求』 梅原猛/共著 安田喜憲/共著 稲盛和夫/監修 新思索社 2004年 p.25「雲南省稲作起源説の見直し」の項に 「(前略)5000年前に稲作は雲南省を中心とする東亜半月弧で生まれた。そしてそれが3000年前に長江(揚子江)の下流に来て、2000年前に日本へ来たという。これは非常にわかりやすい説で、ほぼ定説になっていました。(後略)」との記載あり。 p.36「稲作起源論の新展開」の項に「(前略)これまでの稲作農耕の起源論争は、今のところ三つの段階に分けて考えることができると思います。いちばん最初は(中略)雲南省起源説です。それが潰えて、河姆渡遺跡を中心とする長江の下流域の稲作起源説、これが第二段階です。しかし、(中略)第三の起源説が提示されました。その第三段階の起源説は長江の中流域起源説です。(後略)」との記載あり。 p.210 「(前略)そして長江流域に生活していた苗族などの稲作漁労民は、つぎつぎと(中略)移動を開始した。(中略)その一部の人々が日本列島に漂着して新しい稲作文明を日本にもたらした(図19)。(後略)」との記載あり。 p.209 図19に地図の掲載とp.210と同内容の説明文の記載あり。 △『長江文明と日本』 樺山紘一/編著 福武書店 1987年 p31「江南の稲作は、はるか有史以前、波濤をこえて日本に渡って来た」との記載あり。 〇『中国長江文明と日本・ベトナム』 諏訪春雄/[ほか]著 勉誠社 1996年 p.15 「(前略)日本人にとっては、稲作をはじめとする中国文化の影響を問題にするとき、まずおもいおこされるのは、黄河文明ではなく、長江流域の文化である。」 p.17「(2) 稲作文化」の項に「(前略)農耕に限定してみれば、雑穀の項が文明にたいし、稲作の長江文明という、明確な対比ができる。アジアの稲作は、長江の流域、それもさいきんの中国考古学の発掘成果のしめすところによれば、下流域ではなく、中流域にはじまって、全アジアにひろがっていった。」等の記載あり。 △『古代中国と倭族』 鳥越憲三郎/著 中央公論新社 2000年 p.199-200「(4) 長江を原住地とする倭族たち」の「日本へ渡った倭族」の項目に、「まず取り上げたいのは、日本列島に稲作を伴って渡来した倭人(弥生人)のことである。その倭人の最初の渡来地は、佐賀県唐津市の菜畑遺跡とされている。縄文時代晩期後半のことで、水田遺構や炭化米も検出されて稲作の始原地とされている。」との記載あり。 〇『「邪馬臺」は「やまたい」と読まず』 李国棟/著 白帝社 2005年 p23-24「稲の起源について(中略)長江下流域の(中略)河姆渡遺跡に対する考古学的調査が行われたが、その結果、今から7000年前の稲の実物が見つかった。(中略)したがって、稲作の日本への伝播は、中国大陸東南部における伝播の延長と考えられ、その上限はやはり、今から4000年前~5000年前の間に設定すべきである。」との記載あり。 〇『稲の日本史』 佐藤洋一郎/著 角川書店 2002年 p.59-60 「縄文のイネはいつどこから来たか」の項に 「これによると最古の稲作遺跡は浙江省・河姆渡遺跡と羅家角遺跡で、いずれも約7000年前のものである。(中略)イネが中国からきたという『パラダイム』に従えば日本における稲作の開始もまた、この時代を超えてさらに古くなることはないであろう。」との記載あり。 p.64-67 「縄文稲作はどこからきたか」、「遺伝子の分布とイネの渡来」にも記載あり。 △『照葉樹林文化とは何か』 佐々木高明/著 中央公論新社 2007年 p.195 「江南・華南の稲作センターから日本列島への稲作の伝播は大別して、図に示したA・B・Cの三つのコースが考えられる。(中略)しかし、最近のイネのDNA研究によると、伝来したジャポニカ稲の主な二種類のうち一種は朝鮮半島を経由せず、直接Bコースで渡来したという。」等の記載あり。(Bコース:中国上海・河姆渡付近から九州に向けた矢印がかかれている) 3 本館調査による追加資料 〇『稲のアジア史 3 』渡部忠世/[ほか]著 小学館 1987年 p.13「中国江南の稲作と立地」の項に「江南といえば古くからの沃野のイメージが先行するが事実は江蘇、浙江から洞庭湖周辺に至る揚子江(長江)下・中流の一帯に古くに展開した稲作が、(中略)そこで行われた火耕水耨といわれる技術なども、揚子江流域の低湿原に適用された粗放的技術であったとする見解に私も同意したい。」との記載あり。 p. 30「中国各地からの経路」の項に「「我国の稲作は江南地方に於いて稲作を営み稲を常食とする南方民族の我北九州及南鮮に移入し来り稲作を伝へたるに始まるものと思はれ、その稲は江南地方で栽培が発展してゐた日本型粳稲であつたと推考せられる」と結論しているところに集約できる。」との記載あり。 p. 63「江淮・南朝鮮コースの重要性」の項に「稲作文化の伝来コースとして、もっとも主要なものを設定するとすれば、おそらくCコース、すなわち江淮地域(揚子江・淮河流域地方)から朝鮮半島南部を経由して北九州に至るコースをあげねばならないと思うのである。」との記載あり。 〇『稲作伝来』 森岡秀人/著 岩波書店 2005年 p. 21「稲のふるさとはどこか」の項に「方向性が確実に変化したのは、中国で 稲の遺存体が次々と発掘されるようになったからである。年代の古い遺跡から稲の出土例が矢継ぎ早に見いだされるようになり、中国の考古学者の多くは、稲作の始原地域を長江中・下流域と推測するようになった。」との記載あり。 | |||||||||||
事前調査事項 (Preliminary research) | ||||||||||||
NDC |
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参考資料 (Reference materials) |
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キーワード (Keywords) |
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照会先 (Institution or person inquired for advice) | ||||||||||||
寄与者 (Contributor) | 備考 (Notes) | |||||||||||
調査種別 (Type of search) | 事実調査 | 内容種別 (Type of subject) | その他 | 質問者区分 (Category of questioner) | 一般 | |||||||
登録番号 (Registration number) | 1000257837 | 解決/未解決 (Resolved / Unresolved) | 解決 |