①『過疎問題と地方自治体』には、現島根県益田市「匹見町は、典型的な過疎県である島根県においても、人口減少、拳家離村等々の面で、最も典型的な過疎自治体としてマスコミが全国に紹介、中央省庁等の視察、調査も相次いだ。そして、社会科の教科書等でも、匹見町は過疎の代名詞の扱いを受けるようになった。しかし、匹見町は、その過疎減少が典型的であるがゆえに全国的に有名になっただけでなく、過疎対策樹立と施策展開の典型的な舞台となったことでも、全国に知れわたっている。1963年の初当選以来4期16年間、町長として奮闘した大谷武嘉氏は、(中略)過疎地域の窮状と過疎対策の必要を中央省庁や県に訴えて回り、旧過疎対策法の成立後は、各種の過疎対策事業の積極的導入をはかった」とある。
②「限界集落 限界率60%、過疎のムラで集落の淘汰が始まる」『週刊東洋経済』第6099号でも現島根県益田市匹見町について「過疎打開策の切り札とされた70年の過疎法の制定時には、町長が国会で窮状を訴えた。それが契機となって「過疎発祥の地」と呼ばれたこともある。」とある。
③『新過疎時代』にも同様に匹見町が過疎発祥の町と紹介されている。
④益田市の『益田市歴史文化基本構想を策定しました』の「第2章益田市の概要」では、「昭和30年代のエネルギー革命により、木炭の需要が大きく減少し、炭焼きなどによる山間地における生業が成り立たなくなっていきます。同38年の豪雪なども相まって、同30年代から40年代にかけて山間部では挙家離村が始まり、人口減少率が40~50%となる地域もありました。匹見町では、当時の大谷武嘉町長がこの「過疎」問題を積極的に訴え、過疎地域自立促進特別措置法の成立に貢献しました。これが故に、匹見は「過疎」という語の発祥の地とも呼ばれるようになりました」と書かれている。
なお、大谷武嘉著の『過疎町長奮戦記』は当館未所蔵のため、確認できなかった。
また、⑤『ルポ地方公務員』では、「可部事務所管内の高田、山県両郡は中国山地の過疎地帯である。専門家の間では過疎問題の発祥の地として知られる。」とあり、広島県高田郡美土里町(現安芸高田市)と広島山県郡筒賀村(現安芸太田町)についての記載がある。
⑥『過疎山村の再生』には「友人たち、それもとくに東北地方からの友人たちが、過疎問題発祥の地とされている中国山地を訪ねて洩らすこんな感想の言葉が後者の側面である。」とあり、中国山地が過疎問題発祥の地と認識されていることがわかる。
なお、
⑦『日本の過疎地帯』は、出版された1968(昭和43)年頃の中国地方の状況について記述がある。
⑧『中国山地 上』には、「中国山地に目立つのは激しい人口流出である。昭和三五年から同四〇年の五年間(国勢調査)に人口が一〇%以上も減った市町村は、全国で九百にのぼった。ところが、このうち中国地方は一六〇市町村も含まれている。中国五県の市町村数の実に四八%に当たる。うち、二〇%以上も激減した町村が一八もあった。しかも、これらの町村のほとんどが、中国山地の村々である。」とあり、1965年から1967年に取材した中国山地の地域の状況がわかる。