レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2016/12/16
- 登録日時
- 2016/12/17 00:30
- 更新日時
- 2017/01/04 13:33
- 管理番号
- 1000000893
- 質問
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解決
南城市奥武島で、昔中国の船が難破したのを救助して、観音像が贈られた話について知りたい。
- 回答
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奥武島で外国の遭難船の修理をしていた資料は確認できたが、観音像の話は伝承で、事実確認は出来なかった。
①
『南城市史 総合版(通史)』(南城市史編集委員会 編、南城市教育委員会、2010.3)
p163 「奥武島観音堂」のコラムで、「…伝承によると、十七世紀頃、中国船が台風で遭難し、奥武島の港に漂着した。乗組員は住民に救助され、手厚くもてなされた。…無事、帰国することが出来た。その御礼として、王府を通して贈られたのが、黄金の観音像であった。…奥武島は船を係留・保護するのに適した場所で、沖縄島中南部の東海岸に漂着した外国船は奥武島に曳航され、そこで船を修理して帰国させたとの記録が多い。」の記述がある。
②
『玉城村史 第8巻 上』(玉城村史編集委員会 編、南城市役所、2006.3)
p698-702 「四 奥武観音堂由来記」の項目で、p700 「…古老の伝承によると、…」の記述がある。
p702 「①観音堂の伝え話し 其の当時、仏像と観音堂に関する資料等は首里王府から間切番所を通じて奥武村頭の久保田筑登之が一時保管していたが、久保田家は火災にあい、観音像は無事に救出したが、その資料や諸用具は焼失してしまったという。」の記述がある。
③
『玉城村の文化財概要』(玉城村教育委員会 編・刊、1986.10)
p31 「ト、奥武観音堂」の項目がある。
④
『奥武島誌』(『字誌』編集委員会 編、奥武区自治会、2011.3)
p266-267 「(2)観音堂の由来」の項目で、「1615年頃、中国(朝鮮?)の船が暴風にあって遭難し、奥武島の西海岸に漂着しました。…なお、漂着した年代については、あくまでも古老たちの推測によるものであり、漂着船は中国の船なのか朝鮮の船なのかも含めて今後、家譜などの記録や中国・朝鮮の文献資料などの調査研究が必要であると考える。」の記述がある。
p618 「奥武の歴史年表」で、「1615年頃 奥武観音堂を建立する(古老たちの伝承による)」、「1687年 中国蘇州の商船1隻が11月11日に浜比嘉島に漂着、24日に奥武島に曳航して修理し、翌年3月4日に帰国する(『程氏家譜』)」、「1732年 中国江蘇省の商船3隻が10月25日伊計島に漂着、28日に奥武島に曳航して翌年1月7日に帰国する(『尚姓家譜』)」、「1749年 中国蘇州府の商船2隻が11月、奥武島に漂着(『呉姓家譜』)」、「1808年 中国蘓州府の船が奥武島近くに漂着(蔡温本『中山正譜』巻11)」、「1844年 中国福建省の商船1隻が5月13日、奥武島に漂着(蔡温本『中山正譜』巻12)」の記述がある。
⑤
『沖縄の拝所300』(比嘉 朝進 著、球陽出版、2011.9)
p113 「奥武島観音堂」の項目で、「1687年、蘇州の商船が浜比嘉島に漂着、久米村の鄭弘良が引率して奥武島へ。島民が世話をした謝礼に堂を建立、本尊は仮に板に書いて奉安した。船の修理も終わって翌春帰国した。…観音像は金箔製だったといわれ、沖縄戦で米兵が持ち去った。」の記述がある。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 九州地方 (219 8版)
- 参考資料
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- 1 南城市史 総合版(通史) 南城市史編集委員会∥編 南城市教育委員会 2010.3 K23/N48 p163
- 2 玉城村史 第8巻 上 文献資料編 玉城村史編集委員会∥編集 南城市役所 2006.3 K23/TA77/8-1 p698-702
- 3 玉城村の文化財概要 玉城村教育委員会∥編 玉城村教育委員会 1986.10 K709/TA77 p31
- 4 奥武島誌 『字誌』編集委員会∥編集 奥武区自治会 2011.3 K23/O35 p266-267,618
- 5 沖縄の拝所300 比嘉 朝進∥著 球陽出版 2011.9 K16/H55 p113
- キーワード
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- 奥武島
- 観音像
- 中国船
- 難破
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000203445