レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 20181222
- 登録日時
- 2022/03/31 00:30
- 更新日時
- 2022/03/31 00:30
- 管理番号
- 徳郷20181212
- 質問
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解決
武徳殿の建物の元は賀島邸か。県議会やドイツ兵捕虜収容所としても使われていたらしい。場所はどこか。写真も見たい。
- 回答
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下記の資料より、武徳殿の建物は、賀島邸ではなく、蜂須賀家の富田屋敷が元で、富田浦にあった。
蜂須賀家富田屋敷(現県庁東側付近)>県会議事堂(現県庁東側付近)>公会堂兼武徳殿(現県庁東側付近)>収容所(現県庁東側付近)>武徳殿(徳島公園内)
賀島邸は、現市役所の場所にあり、県庁として使われた。
賀島邸(現市役所の場所)>徳島県庁(現市役所の場所)
【A】p42-43「思い出の建物」
p63解説「公会堂(県会議事堂)」に、「現在の県庁東側付近にあって、県会議事堂兼武徳殿で…一時ドイツ兵の捕虜収容所にあてられたことがある。昭和3年(1928)2月武徳会徳島支部に譲渡、体育館の現在地に移転して武徳殿とした。」写真有。
【B】p33-34「県庁と県会議事堂」に、
「徳島県庁が初めて置かれたのは、現在市役所の敷地となっている旧藩の国家老賀島邸の邸宅で…県会議事堂とも離れ」
「県会議事堂の建物は…昭和三年二月に武徳会支部に譲渡され、徳島公園内(現在の城山東川緑地)に移転して武徳殿(戦災で焼失)となった…もとは蜂須賀家の富田屋敷を改造してきたもので…現実には公会堂兼武徳殿として各種の催し物会場などに使われることが多かった。…ドイツ兵俘虜二〇五名の収容所としたことがある」
写真なし。説明がわかりやすい。
【C】p61-62「武徳殿」
【D】徳島市立徳島城博物館HP
https://www/city.tokushima.tokushima.jp/johaku/
(最終確認 2019/01/07)
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現在の地図と「御山下絵図」(江戸時代後期)を切り替えながら見ることができる。解説もあり。現在の場所と比べるのには、この資料がわかりやすい。
現在の地図:徳島県庁=「御山下絵図」:「富田御屋敷」
解説に、「富田屋敷跡」とあり、ドイツ兵俘虜を収容したことも書かれている。「所在地 徳島市万代町1丁目」。
現在の地図:徳島市役所=「御山下絵図」:「賀島備前」
解説に、「家老賀島家屋敷跡」とあり、「当屋敷は県の庁舎に利用され…」と書かれている。「所在地 幸町2丁目5番地」
- 回答プロセス
- 事前調査事項
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徳島県議会史等を見たが、変遷がよくわからなかった。
- NDC
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- 四国地方 (218 8版)
- 参考資料
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- 【A】写真でみる徳島市百年 (T210Lトク242-43徳島市市史編纂室/編 徳島市 1969)
- 【B】ふるさと徳島 (T210トク1133-34 ふるさと徳島編集委員会/編 徳島市文化振興課 1992.03)
- 【C】眉山公園案内附徳島公園 (T291オカ61-62 小川袖香(小川国太郎)/著 小川袖香 1930.11)
- キーワード
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- 武徳殿、 徳島県庁、 徳島県議会、 ドイツ兵俘虜収容所、 賀島
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000314425