レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2005年05年17日
- 登録日時
- 2005/11/09 09:29
- 更新日時
- 2020/11/30 13:44
- 管理番号
- 京資-002
- 質問
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解決
織田信長の嫡子・信忠が亡くなった場所はどこか。
- 回答
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信忠は、本能寺の変の際、勘解由小路(かげゆこうじ)室町にあった二条御所で自刃した、というのが通説である。
しかし、もう一説に、押小路室町の関白二条家の屋敷跡に信長が建築した二条御所で自刃したという説もある。
当時の記録では、勘解由小路室町の二条御所は天正4(1576)年に解体され(『言継卿記』)、押小路室町の二条御所が天正7(1579)年に誠仁親王に献上されており(『多聞院日記』)、天正10(1582)年の本能寺の変では、信忠は下御所(誠仁親王御所)で自刃した(『言経卿記』)とされている。
また、後者の方が信忠が宿舎としていた妙覚寺からも近いが、史実は不明である。
(2011年4月26日追記)
近畿大学中央図書館様からいただいた情報を備考欄に記載しました。
- 回答プロセス
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1.『日本史大事典』等の歴史事典で「織田信忠」「本能寺の変」を見ると、二条城、二条御所、二条邸が同義に使用されている。
2・gooで〔本能寺の変 信忠〕を検索し、「織田信忠の見た風景」で信忠自刃の場所の異説を知る。
3.「織田信忠の見た風景」の参考文献を見る。
- 事前調査事項
- NDC
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- 近畿地方 (216 9版)
- 参考資料
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- 『日本史大事典』 平凡社 1992.11~1994.5 (当館請求記号210.033/N71)
- 『国史大辞典』 国史大辞典編集委員会編 吉川弘文館 1979.3-1997.4 (当館請求記号210.033/Ko53)
- 『日本歴史大辞典』 日本歴史大辞典編集委員会編 河出書房新社 1969-1971 (当館請求記号210.033/N71)
- 『つちの中の京都 2』 京都市埋蔵文化財研究所編 京都市埋蔵文化財研究所 2001.11 128p (当館請求記号K1/216.2/Ky6/2)
- 『日本の歴史 11』 集英社 1992.4 358p (当館請求記号210.1/N71/11)
- 『言継卿記 第6』 山科言継著 続群書類従完成会 1967.11 324p (当館請求記号210.088/Y44/6)
- 『多聞院日記 3(続史料大成第40巻) 竹内理三編 臨川書店 1985 463p (当館請求記号210.088/SH89/4-40)
- 『大日本古記録 言経卿記 1』 東京大学史料編纂所編 岩波書店 1959 315p (当館請求記号210.088/D25/T5-11-1)
- 「織田信忠の見た風景」(http://homepagel.nifty.com/heiankyo/rekishi/reki20.html)
- キーワード
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- 織田信忠
- 二条御所
- 照会先
- 寄与者
- 備考
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(2011年4月26日追記)
近畿大学中央図書館様からコメントで、以下の情報をいただきました。
下記の報告書が刊行され、インターネットでも全文が公開されています。この資料のp3に、「安土桃山時代になると、織田信長が二条晴良から当地を譲り受け、二条殿御池城を建てた。後に、誠仁新王へ進上し、下御所と呼ばれたが、本能寺の変において、信長の長男・信忠は、妙覚寺を出て下御所に籠り討死している。」と記述されています。
『京都市埋蔵文化財研究所発掘調査報告 2007-8』(平安京左京三条三坊十町(押小路殿・二条殿)跡) 京都市埋蔵文化財研究所編刊 2007.11 33p,図版8p(当館請求記号K1/210.025/Ky6/07-8)
本文 https://www.kyoto-arc.or.jp/news/chousahoukoku/2007-08honbun.pdf
(2020/11/30確認)
図版 https://www.kyoto-arc.or.jp/news/chousahoukoku/2007-08zuhan.pdf
(2020/11/30確認)
また、当館の所蔵資料ではありませんが、同図書館様から以下の資料も参考になるとの情報をいただきました。
・鈴木進一「二条城と二条御所」『国学院雑誌』第80巻第1号 p62-76 1979年1月
・『検証 : 本能寺の変』 谷口克広著 吉川弘文館 2007.5 p53-58
・『本能寺の変 : 時代が一変した戦国最大の事変』(新・歴史群像シリーズ 9) 学習研究 2007.8 p22-27
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 人物
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000024588