レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2022年10月22日
- 登録日時
- 2022/10/22 18:39
- 更新日時
- 2022/11/16 16:58
- 管理番号
- 蒲郡-2022-10221-A
- 質問
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未解決
三谷町に多い「竹内」姓の由来を調べている。何かの本で松平家と関係があると読んだ。本当か。
- 回答
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「竹内」は「武内」と同じであり、その由来として、
「熱田神宮の大宮司であった武内左衛門佐三河五良季頼(すえより)が後三年の役により活躍した褒賞として、三谷郷の地を賜り、そこに移り住み八剣神社を建てた。季頼の娘は、義朝の室となり、頼朝を生んだ。」という説がある。
松平家との関係は、宝暦5年の「家中順席帳」にて、西郡松平家の家臣団に「竹内甚蔵」という名を確認することができる。
- 回答プロセス
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1.姓氏を調べるということで、まず『角川日本姓氏歴史人物大辞典 23 愛知県』を見てみる。
p777に「竹内 たけうち・たけのうち」の項あり。「宝暦五年の西郡竹谷松平家中順席に中小姓竹内甚蔵(八石二人扶持)の名が見える。(蒲郡市誌)」とあり、松平家の家臣に竹内という姓の人がいたことがわかる。
2.竹谷松平の家中順席帳を調べる。前述の参考文献に『蒲郡市誌』とあったので、こちらを見てみる。p277に「家中の順席」の項あり。西郡松平家の家中順席には区分があり、「中小姓(ちゅうごしょう)」はその中の一つ。p281の「順席による職務内容」にその詳細がわかる。
p278に「安政2年(1855)以降の西郡の家臣団には、宝暦5年(1755)以降に、家臣として存在した下山・足立・安達【中略】竹内・山田【中略】等の家筋が、家臣団の中から姿を消している。」とあった。竹内姓の家臣は、1755-1855年の間に「家臣定員とも考えあわせて断絶したものと推定される。」との記述もあった。
3.次に『蒲郡市史 本文編2 近世』を見てみる。p172「松平家の家臣」の項にて、家臣の変動について記述あり。松平家の家臣の江戸時代の公式記録は、宝暦5年の「家中順席帳」、安政2年(1855)、安政4年(1857)の「御家中順席帳」があるのみ。さらに明治30年の「履歴書」があると書かれている。p173の表3-8「松平氏の家臣団(「履歴書」による)」には、竹内甚蔵の名が書かれている。
4.竹谷松平家のことであるので、『竹谷松平氏 西ノ郡の殿様』を見てみる。
p190より家臣団についての解説があった。『蒲郡市史 本文編2 近世』と同じような内容が書かれている。さらにp192から、時代ごとの家臣の表があり、1700年以降の家臣団のなかに「竹内甚蔵」の名前があった。
5.ここで、利用者から「八劔神社に関係があるらしい」という情報をいただく。
再度、1で見た『角川日本姓氏歴史人物大辞典 23 愛知県』を見てみる。
p777「『寛政譜』によれば、【中略】新家譜で清和源氏義光流を称する氏も三河に居住したという。『二葉松』『参河志』には、【中略】宝飯郡三谷村(蒲郡市)の八剣大明神の神主に竹内左衛門五郎が見える。なお、『姓氏家系』は、同社神主の氏を武内と載せ、尾張姓(藤原姓)と記す。」とあった。
そこで、同ページ「武内 たけうち・ぶない」を見ると、「『和名抄』に見える三河国宝飯郡美養(みや)郷(蒲郡市)に関する美養郷由来記によれば、熱田大神宮武内左衛門佐三河五良季頼の娘が源頼朝を生み、職を季範(すえのり)に譲って三谷(蒲郡市)に八劍社を祀ったという(神社宝飯郡史)。『二葉松』には、八剣神社神主は武内左衛門五郎とある。」との記述があった。
6.また『姓氏家系大辭典 第2卷下』p3435には、「尾張姓(藤原姓) 三河国宝飯郡三谷村八劔大明神の神主家にして、集節に武内左衛門佐三河五良季頼と云う。この娘・頼朝を生む。職をば季範にゆずりて、三谷にては八劔に祀ると委しくいえり。」とあった。
7.5の資料にて参考文献として挙がっていた『神社を中心としたる寳飯郡史』を見る。
p203より、「第五節 八劔天神」の項で、詳しい記述がある。それには、
「三谷村八劔宮並武内姓来由」
熱田の大宮司武内左衛門佐三河五郎季頼は不思議な力を持っており、熱田大神宮のお告げにより宝殿の宝剣を持って後三年の役に参戦し、源義家公に神勅をお伝えしたところ、7日のうちに朝敵敗れ平穏を迎えた。将軍は大いに喜び、季頼に三谷郷百町を与えた。この季頼には娘がいて、左馬頭源義朝の室となり男子を生んだ。この男子が頼朝である。季頼は大宮司の職務を弟季範に譲り、三河の地に住み、ここに八剱神社を建てた。
ということが書かれている。
しかし続けて、「とあるは信じ難し。」とも書かれている。さらに、
「当社創立はより以前とせざるべからず上、三河五郎季頼とは恐らく三河四郎太夫季兼(すえかね)の事かと思わるれど、季兼は藤原南家の人たる事顕然たれば、武内宿祢の後裔紀氏の人となし難く、又頼朝の母は季兼の嫡男額田冠者季範の娘にして、季範に兄ありし事物に見えず、其の他の記事また荒誕不稽と云うにちかし。」と続いている。
そして、
「源家の崇敬を受けしか、社伝比企盛長頼朝の命により再建せしむと云えり。季頼後出羽前司源高能と改名して出羽次郎高行の家を継ぎ、長子高光に家督を譲りて、次男の季光には八劍神宮の神職を譲れりと伝う。」
ともあった。武内左衛門佐三河五良季頼は改名したが、そのまま武内(竹内)姓は三谷に残ったということか。
8.八劔神社の由来を調べてみる。
『愛知県神社名鑑』p795「八剱神社」にて由緒は「『三河国内神明帳』に従五位上八劔天神、宝飯郡に座すとあり。寛治3年頃(1089)の創建で治承年中(1177-80)源頼朝再建する。建久元年(1190)安達九郎盛長、頼朝の命により三河奉行として再建し、その後徳川内府より朱印社領二石斗を寄進、代々の領主崇敬する。」とあり、7で調べたように、源頼朝と安達盛長により再建されていると分かる。現在の宮司の姓は「竹内」。
9.武内左衛門佐三河五良季頼について調べてみる。7の資料に「三河五郎季頼とは恐らく三河四郎太夫季兼の事かと思わる」とあるため、このあたりを調査する。キーワード「三河五郎季頼」でインターネット検索するもそれらしい人物が見つからず。
10.次にキーワード「三河四郎太夫季兼」でインターネット検索。ウィキペディア「藤原季兼」がヒットする。「藤原 季兼(ふじわら の すえかね)は、平安時代後期の貴族。藤原南家貞嗣流、駿河守・藤原実範の子。本名は季風。三河四郎大夫を名乗る。」とあった。7の調査で季兼は季頼の弟にあたる、もしくは季頼本人のことかと思われるということなので、家系図をあたってみる。
11.『日本史諸家系図人名辞典』p528に藤原氏(南家)の家系図あり。「季兼〔熱田大宮司〕-季範」と書かれているが、季頼の名はない。同資料p530に「熱田大宮司季兼 (1044-1101)平安時代の神職。【中略】三河(愛知県)にすんで三河四郎大夫と称し、尾張の目代となった。熱田大宮司尾張員職(かずもと)の娘とのあいだに季範をもうけた。【後略】」とあり。また「熱田大宮司季範 (1090-1155)【前略】熱田大宮司季兼の長男。【後略】」と書かれており、兄がいたとは書かれていない。
また『日本古代中世人名辞典』p46「あつただいじんぐうすえのり 熱田大神宮季範」の項には兄弟についての記述はないが、「季範の女は源義朝に嫁して頼朝を生み、武家とも親縁関係を結んだ。」とあった。頼朝を生んだのは季範の娘であり、季頼の娘ではないと思われる。
『寛永諸家系図伝 第7』p164-「壬 南家 為憲流(貞嗣流)」に藤原氏南家の家系図あり。「季兼 三河四郎大夫と号す。-季範 熱田大宮司」と書かれているが、それ以外の兄弟の記述なし。
『愛知県史 通史編1』p628-「熱田大宮司藤原氏の登場」や、p629「図9-2-5 貞嗣流藤原氏と熱田大宮司家」、『愛知県史 通史編2』p45-「院の近臣熱田大宮司家」の記述や、p46の「図2-1-7 熱田大宮司藤原関係系図」、『愛知県史 資料編14』p215「熱田大宮司千秋家譜」にも季頼の名は見つからない。
12.八劔神社の由緒を別の資料で見てみる。『今昔の三谷』p19-「八劔神社」の項あり。p22には「代々この八劔宮の神官であった武内五郎氏宅に左の一文がある。」とあり、7の資料に掲載されていた「三谷村八劔宮並武内姓来由」の省略のないものがあった。7の資料にも書かれていたが、こちらにも「武内左衛門佐三河五郎季頼」に注釈があり、「武内宿祢十五代後胤紀貫之三男紀季之朝臣二男季頼」と書かれている。紀貫之の三男にあたる人物か。
13.『日本史諸家系図人名辞典』p234「紀氏」を見るが、貫之の子は時文、紀内侍の二人の名しか掲載がない。
14.7の資料に「季範に兄ありし事物に見えず」とあったとおり、季頼についての詳しいことが見つからず、「三谷村八劔宮並武内姓来由」が正しいかは不明のままであるが、八劔神社の神官の姓から伝わったらしいことと、松平家の家臣に「竹内」姓の武士がいたことは判明。上記の情報を利用者に提供。
- 事前調査事項
- NDC
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- 系譜.家史.皇室 (288)
- 中部地方 (215)
- 神社.神職 (175)
- 参考資料
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三谷の八剱(八剣)神社のいわれを知りたい。(蒲郡市立図書館).
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愛知県姓氏歴史人物大辞典編纂委員会編著 , 愛知県姓氏歴史人物大辞典編纂委員会 , 竹内, 理三. 愛知県. 角川書店, 1991. (角川日本姓氏歴史人物大辞典 / 竹内理三 [ほか] 編, 23)
- キーワード
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- 照会先
- 寄与者
- 備考
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名称の表記ゆれは出典に合わせた。
出典元が旧字、旧仮名遣いの場合、可能な限り新字、現代仮名遣いに直して記載。
- 調査種別
- 文献紹介 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000322925