レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2018年11月26日
- 登録日時
- 2019/11/08 17:12
- 更新日時
- 2019/11/08 17:53
- 管理番号
- 京歴-466
- 質問
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解決
摂関家の家格は時代により浮き沈みがあるようだが、その推移を知りたい。
- 回答
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『国史大辞典 8』(①)p.336「摂関家」の項に、寛和2(986)年に藤原兼家が一条天皇の外祖父として摂政となり摂関の独自最高の地位を確立したこと、その五男・藤原道長以降、慶応3(1867)年の王政復古の大号令により摂関制度が廃止されるまで、藤原氏が摂関世襲の最高の家格となったことが記載されている。
『国史大辞典 5』(②)「五摂家」pp.805-806では、鎌倉時代中期以降、藤原氏北家の中で、近衛・鷹司・九条・二条・一条の五家が摂政・関白に就任する家となったこと、明治17(1884)年に五摂家は華族となり、公爵を授けられたが、この制度は昭和22(1947)年に廃止されたことが述べられている。
『皇室事典』(③)pp.86-88「天皇周辺の豪族と貴族」には、摂関制度の始まり、五摂家の成立等、摂関家の歴史に関して記述がある。pp.87-88によると、摂関制は明治維新とともに廃止され、明治22(1889)年の「皇室典範」で摂政制が復活したものの、摂政を命ぜられるのは皇族に限られた。五摂家は明治17年の華族令により公爵となったが、昭和の典範制定とともに家格・特権は廃止されている。
『幕末の公家社会』(④)pp.120-121では、摂政、関白はその制度ができて以来、藤原姓の摂家が独占し、豊臣時代のみ他姓に移って五摂家が軽んじられたが、江戸時代に復権したと述べられている。復権のきっかけは「禁中並公家諸法度」で、摂家が宮家より格上とされたことによる。
同書pp.145-146には、安政5(1858)年の通商条約勅許問題をきっかけとして、孝明天皇が太閤鷹司政通と関白九条尚忠を失脚させたこと等により関白・摂家の権威が低下したこと、pp.17-18には、慶応3(1867)年の王政復古の大号令により、摂関制度が廃止されたことが書かれている。
- 回答プロセス
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『国史大辞典』(①②)で「摂関家」「五摂家」等、関連する項目を調べた。
摂関家は天皇を補佐する家柄であることから、「皇室」(日本十進分類法(NDC)288.4)の棚をブラウジングし、『皇室事典』(③)に摂関家の家格に関する記述があるのを見つけた。
①②③に摂関制度が明治維新期に廃止されたことが記されていたため、「江戸末期.幕末史」(日本十進分類法(NDC)210.58)の棚から、『幕末の公家社会』(④)に、関連する記述があるのを見つけた。
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本史 (210)
- 参考資料
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- ① 国史大辞典編集委員会編.国史大辞典 8.吉川弘文館,1987. (当館請求記号:||210.033||Ko53||8)
- ② 国史大辞典編集委員会編.国史大辞典 5.吉川弘文館,1985. (当館請求記号:||210.033||Ko53||5)
- ③ 皇室事典編集委員会編著.皇室事典.角川学芸出版/角川グループパブリッシング(発売),2009. (当館請求記号:||288.4||Ko87||)
- ④ 李元雨著.幕末の公家社会.吉川弘文館,2005. (当館請求記号:||210.58||R32||)
- キーワード
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- 摂関家
- 五摂家
- 家格
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000264905