レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2017年04月13日
- 登録日時
- 2017/11/23 14:50
- 更新日時
- 2017/11/24 15:23
- 管理番号
- 地-1700001
- 質問
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未解決
KIRINのHPに「ペリー、艦上でパーティー」という記載がある。この記載のうち、「条約締結後の3月27日、70人前後の日本側官吏を招いて船上でのパーティーを開催」という部分の詳細を調べられる書籍を探している。とくに「70人前後の日本側官吏」というところで、この70名の名簿、リストなどが調べられないか。
- 回答
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※1854(嘉永7)年3月27日は、陰暦で嘉永7年2月29日となり、資料によって陰暦で記載されているものと陽暦で記載されているものがあります。
1.1854年3月27日のパーティの詳細がわかる資料について
① 『ペリー艦隊日本遠征記 下』M.C.Perry著 万来舎 2009年4月
p208-p213に「ポーハタン号艦上で日本委員をもてなす」というタイトルで、3月27日に提督が日本委員とその従者たちを饗宴に招待した際の記述があります。
②『ペリー日本遠征日記』ペリー著 雄松堂出版 1985年
p365-p368に「パウハタン号上での歓迎会」というタイトルで、ペリーがポーハタン号の艦上で日本の理事官たちをもてなした際の記述があります。また、その記述の中に、「五人の理事官」がペリーと食卓を囲んだ旨や「主席理事官の林」「松崎」「森山」という名前が出てきます。
③『亞墨理駕船渡来日記 ―横浜貿易新聞から―』西川武臣編著 神奈川新聞社 2008年8月
p222-p226に「招待 交渉の妥結を実感」というタイトルで、2月29日に幕府の「応接掛」の役人がペリー艦隊に招待された旨の記述があります。
2.70人前後の日本側官吏の名簿について
「1854年3月27日のパーティに出席した日本側官吏の名簿」と明記した資料を見つけることはできませんでした。
以下の資料が参考になるかもしれませんので、参考までにご紹介します。
①『亞墨理駕渡來日記』石野瑛編 名著出版 1973年
p120に「廿九日今日異人ヨリ日本ノ御役々ヲ船中へ招待饗應ス…(後略)」という記述が3行ほどあります。このページには名簿等の掲載はありませんが、p123-p127に日本側の官吏の名簿があり、「應接御用掛御役々」として「御儒者 林大學頭」「調役 松崎滿太郎」「通詞 森山榮之助」等63名の役職と氏名が掲載されています。しかし、この官吏たちが3月27日の出席者かどうかは不明です。
②『ペリー来航関係史料集 古文書部会史料集第一集』三浦半島の文化を考える会古文書部会編集 三浦半島の文化を考える会 2013年5月
p85-86に「応接之度人数」というタイトルで、「林大学頭 十五人、町奉行 井戸対馬守様 十五人、伊沢美作守様 十五人、鵜殿民部少輔 十四人、松崎満太郎様 十人」という記述があります(合計すると69名)。また、その直後に、「〆同度」というタイトルで「二月廿九日 夷船から夷舟へ被控行 此方三十人余」という記載があります。
- 回答プロセス
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1.KIRINのHPを確認し、パーティが1854(嘉永7年)年に開催されたことがわかった。
2.インターネットで、該当のパーティが「ポーハタン号」で開催されたことがわかり、「ペリー」「ポーハタン号」等のキーワードでインターネット検索をして情報収集をした。
3.開港期の横須賀に関する資料を調査している途中で、パーティが開催されたのは横浜であることがわかり、横浜に関する資料を調査した。
4.ペリー来航時の記録資料を調査した。調査の途中で、それまで調査した資料がアメリカ側の視点の記録資料ばかりであったことに気づき、日本側の視点の資料も探して調査した。
5.NDLサーチでデジタル資料で見ることができるものがないか検索した。
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本史 (210)
- 外交.国際問題 (319)
- 参考資料
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- M.C.Perry著. ペリー艦隊日本遠征記 下 . 万来舎, 2009年.
- ペリー著. ペリー日本遠征日記. 雄松堂出版, 1985年.
- 西川武臣編著. 亞墨理駕船渡来日記 ―横浜貿易新聞から― . 神奈川新聞社, 2008年.
- 石野瑛編. 亞墨理駕渡來日記. 名著出版, 1973年.
- 三浦半島の文化を考える会古文書部会編集. ペリー来航関係史料集 古文書部会史料集第一集. 三浦半島の文化を考える会, 2013年.
- キーワード
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- ペリー
- ペリー来航
- 黒船
- 横浜
- パーティ
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000225315