松縄城に関する次の所蔵資料を見たところ、「摂津守頼清」については記していないものの、
松縄城の城主の来歴に関わる記述があった。
・『讃岐香川郡志』(青井常太郎/編 香川県教育会香川郡部会 1944年)
[当館請求記号:K2320 A1]
第十一編 名所旧蹟 第六章太田村 第一節旧蹟 (二)松縄城の記述は次のとおり。
(漢字の旧字は、常用漢字に置き換えた。)
「松縄にあつた。宮脇越中守長定が此処に拠つていた。宮脇氏は元紀州熊野の別当湛増の
後裔で本姓は藤原氏である。初は鈴木若狭守と称した。鎌倉右大将家の時に平家追討の為に
西海に下向し、武功に因つて、香川郡で所領を給はり、此処に居住した。足利家の時戦功に
因つて管領より諱の一時を賜はり、近傍六村を賜はり宮脇村に居た。依つて鈴木を改めて
宮脇と称した。天文の頃には兵庫と称する人が継いでいた。此の兵庫には弾正という弟もあった。
兵庫の子を又兵衛(長門守)といつた。信長に仕へて摂州伊丹の城を領し、忠勤を盡した。
其の後秀吉備中に発向の時、山崎合戦に於て戦功があつたので、秀吉より「日本第一の
高名なり追つ手加増すべし」と云はれ、手づから長刀を与へられた。後に金吾中納言秀秋に
属せしめようとせられたが、辞して讃岐に帰った。此の長門守又兵衛の嫡子は池田輝政に
仕へて三千石を賜はつた。長門守は法体となり半入と称し、生駒家に仕へて千石を給はつた。
馬術の妙を得ていて、障子二枚を並べ、是を超乗し幾度繰返しても、是を破ることがなかつた。
後播州に行き某家で終わつた。半入の末子九郎兵衛は家を継ぎ生駒高俊に仕へて父の禄を
襲いだ。(938~939頁)
・『香川県中世城館跡詳細分布調査報告 平成14年度』
(香川県教育委員会/編・発行 2003年) [当館請求記号:K2025 K7 66]
Ⅲ城館跡の概要 5.高松市 松縄城跡に、城主とされる宮脇氏について次のように記述。
「『南海治乱記』は、「永正五年八月香西豊前守元定」「山田郡ニ発向ス相従人々ハ」「松縄
手ノ宮脇氏族」、「元亀二年」「城持ノ旗下ニハ」「松縄手ノ宮脇兵庫、同弾正」などと記す。
『前田清八方江之返答』(讃岐国香川郡由佐家文書)は、「松縄城主の事、此段合点不参候、
往古より松縄二城ハ有ましく候」とし、松縄城はなかったとする。また、宮脇氏の来歴について、
「(宮脇)越中守紀州より参候由、左様も可有之候」「天正五年二月」「雑賀之者共并与力之
面々不残御追罰被成候、其節討もらされ候者とも阿波淡路讃岐江立のき候、其比越中守も
当国へ参候与見へ申候」と記す。」(169~170頁)
・『口訳 全讃史』(中山城山/著 桑田明/訳 城山会 1991年)
[当館請求記号:K2100 N1 4]
巻の九古城志 松縄城(香東郡松縄村に在る)の項に、次のような記述がある。
「宮脇織部がここに居た。 熊野清光の子孫である。天正の時の宮脇兵庫頭は、
植松備後守の妻の父である。世々香西氏に属した。」(363~364頁)
『全讃史』は、儒者中山城山が著した讃岐の歴史書です。文政11年(1828年)に
高松藩に献上している。
・『新修高松市史 1』(高松市史編集室/編 高松市役所 1964年)
[当館請求記号:K2310 T1 1-1]
室町幕府おこるの章に、松縄城に関する記述がある。
「松縄城址 松縄町にある。応仁二年(1468)宮脇長貞が、紀州からうつって、
ここを居城とした。野原庄、太田庄の七村を領していた。長貞の子、元長、その弟義長、
元長の子弾正と、つづいて城主であった。」(314頁)