レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2017年02月25日
- 登録日時
- 2018/03/06 13:02
- 更新日時
- 2018/05/18 17:12
- 管理番号
- 埼熊-2017-123
- 質問
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解決
「一心」という木曽御嶽教の行者の一生が分かる本を知りたい。
- 回答
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一心行者の一生について記載があった資料を紹介した。
1 『一心霊神資料集 武石村郷土叢書 第3篇』(武石村郷土研究会 1986)
一心について、武石村郷土研究会が関係者・関係機関に問い合わせた回答記録集。
2 『修験と神道のあいだ 木曽御嶽信仰の近世・近代』(中山郁著 弘文堂 2007)
p83-89「一心行者とその講中」
「開祖の一心行者は明和八年(一七七一)、信州小県郡上本入村に誕生。俗名を橋詰長五郎といい、江戸に出て下谷車坂の穀物商、丸山重兵衛の養子となり、一家をたて信濃屋又四郎を名のったが、妻の死を契機に下谷金杉の萬徳寺恵性のもとに入門、さらに氷川大乗院役僧福寿院順徳のもとで修験となり、本明院一心を名のった。(中略)文政三年(一八二〇)、一心は名主の訴人により捕縛され遠島を申し付けられ獄死し、門弟六人は所払いの処分を受けることになった。(後略)」
3 《国会図書館デジタルコレクション》「村誌王滝 下巻」(王滝村〔長野県西筑摩郡〕 1961)p1636-1642
(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3020424 国会図書館)369コマ-373コマ 国立国会図書館/図書館送信参加館内公開
324コマ-(p1554-)「第9章 3 御岳山開闢と其後并講祖の人々」
369コマ-373コマ(p1636-1642)「一心行者」の項
「一心行者は後には幕吏に囚われの身となり投獄された人であるから、生前中の全ては消滅されて詳細を知ることが出来ない。普寛行者が入寂して後、同行者の修験法を極め、御嶽講の布教に努めた人である。(中略)一心は俗名を重五郎と言い、明和八年十月三日信州小県郡武石村上本入村小寺尾、橋詰長兵衛光広の長子として生まれた。(後略)」
- 回答プロセス
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1 参考図書を〈一心〉で検索する。
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞社 1994)
p160「一心 いっしん」明和8.4.2(1771.5.15)-文政4.10.2(1821.10.27)
「江戸後期の木曾御岳の行者。信濃国小県郡上本入村(長野県小県郡武石村本入)生まれ。俗名を橋詰長兵衛といった。のちに江戸に出て、下谷車坂町穀物商丸山重兵衛の養子となり、さらに一家を創立して信濃屋又四郎と称した。42歳のときに妻子の死に遭い仏門に入る。下谷金杉の万徳寺恵性和尚の弟子となり、さらに大乗院役僧福寿院順徳の弟子となって本明院一心と号した。(後略)」
2 自館目録を全項目〈一心 & 行者〉で検索する。
『一心霊神資料集 武石村郷土叢書 第3篇』(回答資料)
自館目録を全項目〈木曽御嶽〉で検索する。
『木曽御嶽信仰 宗教人類学的研究』(菅原壽清著 岩田書院 2002)
p177-180「普寛の弟子のうち中期以降に活躍した行者に一心と一山がいる。一心行者は明和八年四月二日、長野県小県郡に生まれた。幼名を橋詰長郎といい、幼名より仏門に入り、真言の修行を行った。(後略)」
3《Google》を〈一心行者〉で検索する。
《木曽御嶽信仰の行者旧跡 一心旧跡》(個人サイト)
参考文献として「『修験と神道のあいだ』83-87頁、『村誌王滝 下巻』」とあり。
4 「木曽御嶽信仰の行者旧跡 一心旧跡」の参考文献より
『修験と神道のあいだ 木曽御嶽信仰の近世・近代』(回答資料)
《国会図書館デジタルコレクション》「村誌王滝 下巻」(王滝村〔長野県西筑摩郡〕1961)(回答情報)
ウェブサイト・データベースの最終アクセス日は2017年2月25日。
- 事前調査事項
- NDC
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- 仏教 (180 9版)
- 参考資料
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- 『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞社 1994) , ISBN 4023400521
- 『一心霊神資料集 武石村郷土叢書 第3篇』(武石村郷土研究会 1986)
- 『木曽御嶽信仰 宗教人類学的研究』(菅原壽清著 岩田書院 2002) , ISBN 487294254X
- 『修験と神道のあいだ 木曽御嶽信仰の近世・近代』(中山郁著 弘文堂 2007) , ISBN 9784335100826
- 「村誌王滝 下巻」(王滝村〔長野県西筑摩郡〕 1961)
- キーワード
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- 一心
- 木曽御嶽教
- 行者
- 修験
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 人物
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000232152