レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 20170818
- 登録日時
- 2017/07/15 00:30
- 更新日時
- 2018/08/18 18:01
- 管理番号
- 0400000035
- 質問
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解決
茨木市にあった三宅城の城主の菩提寺はどこか。
- 回答
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『わがまち茨木 城郭編』(茨木市/編 茨木市 1987)P62-63
P62-63 「三宅城」の項あり。
「(前略)三宅氏の菩提寺だった常楽寺跡(後略)」の記述あり。
『わがまち茨木 神社・仏閣編』(茨木市/編 茨木市 1989)P174 P185
P174 「万福寺」の項に以下の記述あり。
「明治6年廃寺となった常楽寺(三宅廃寺)の塔婆心礎が境内にある。」
P185 「三宅廃寺」の項に以下の記述あり。
「蔵垣内付近
行基菩薩が譯1200年前(聖武天皇 天平10-738)、礼状として開いたのが始まりと伝えられている。
寺は東西48余間あり、釈迦堂、観音堂があった。350年前 天皇家、公家方の祈願所として一時栄えたが後消失、一度再建された。
寺は三宅連と称される屯倉あるいは屯田を統率していた中臣系の氏族が建てたものと考えられ、三宅氏の氏寺となり、三宅城主 三宅出羽守の菩提寺となっていたが明治6年(1973)廃寺となった。
又、万福寺(蔵垣内三丁目)境内に残る塔婆心礎は常楽寺の唯一の遺物といわれ、その心礎の形式から飛鳥時代末期から奈良時代前期のものと考えられています。」
『新修茨木市史 第9巻 史料編 美術工芸』(茨木市史編さん委員会/編 茨木市 2008)P112 P117 P125
P112 「三宅廃寺とその周辺」という項あり。
「摂津市千里丘にあった常楽寺は、『常楽寺縁起』(『摂津市史資料編一』所収)によれば、天平年間に行基が開き、往時は一同伽藍をそなえた大寺で、室町時代には三宅氏の菩提寺であったという」との記述あり。
P117 「三宅氏の菩提寺とされる常楽寺(現・摂津市)は天平年中に行基が開いたという伝承があり、元和元(1615)年焼失、元禄13(1700)年再興されたが、廃仏毀釈によって明治6(1873)年廃寺になったという。」との記述あり。
P125 「三宅氏は明治6(1873)年に廃寺となった常楽寺(現・摂津市)を菩提寺としていた。」との記述あり。
上記資料から、三宅城主であった三宅氏の菩提寺は「常楽寺」であったことがわかるが、常楽寺は廃寺になり、現在は万福寺の境内に塔婆心礎が残っているということがわかった。
『新修茨木市史 別冊 年表・索引』を確認し、「常楽寺」が記載されている「新修茨木市史」の1~10巻を調べ、該当ページを確認したが、上記以外では回答となる記述はなかった。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 寺院.僧職 (185)
- 参考資料
- キーワード
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- 城・砦
- 仏教・寺院
- 人物
- 歴史
- 行基
- 三宅城
- 三宅廃寺
- 常楽寺
- 万福寺
- 三宅出羽守
- 茨木市
- 照会先
- 寄与者
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- [2018.8.18追記]
国立国会図書館関西館より、コメントをいただきました。
『日本歴史地名大系28 大阪府の歴史1』(平凡社 1986)P218
常楽寺跡の項に
「常楽寺は天平年間(七二九~七四九)行基が(略)瑞光の導きにより開いたと伝え、七堂伽藍を備えた大寺であったという(「常楽寺縁起」古木家文書)。その後、三宅城(現茨木市)城主三宅氏の菩提寺となったが(略)廃仏毀釈によって明治六年に廃寺となった。旧境内は現在墓地となり、そのなかに三宅氏の墓碑とみられる宝篋印塔がある。」
とあり、三宅氏の墓碑が現存している可能性についても言及されている。
- [2018.8.18追記]
- 備考
- 調査種別
- 内容種別
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000218742