レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2013年07月06日
- 登録日時
- 2013/07/06 15:17
- 更新日時
- 2013/07/06 16:38
- 管理番号
- 20130706-6
- 質問
-
解決
富士講について知りたい。
- 回答
-
富士講(ふじこう) Yahoo!百科事典[日本大百科全書(小学館)]
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E8%AC%9B/ (2013/07/05確認)
富士山信仰の講社。富士山を遠く仰ぎ見て宗教的な感慨を抱くことは、古くからあったに違いないが、中世には修験道(しゅげんどう)を中心に、関東・東海地方に富士信仰が形成されていた。近世初期に長谷川角行(はせがわかくぎよう)が教義を整え、その布教のために信徒組織をつくった。富士山登拝と寄進がおもな目的である。その後、食行身禄(じきぎようみろく)が講社の発展を図り、江戸を中心に町人や農民に広く呼びかけた。先達(せんだつ)が霊験(れいげん)を説いて信徒を集め、先達に引率されて富士山に登拝するものである。講中の者は登拝に先だって3日または7日の精進潔斎ののち、白衣を着て鈴と金剛杖(こんごうづえ)を持ち、「六根清浄(ろっこんしょうじょう)お山は晴天」などと唱えながら、行者(ぎょうじゃ)として修行のために富士山に集団登拝する。実際に登山できない人のためには、村内に富士塚などの遙拝(ようはい)所を設けた。関東にはいまも、富士山をかたどった富士塚や、登拝記念の石塔が数多くあり、地名に残ったものが多い。・・・
参考文献
岩科小一郎著『富士講の歴史――江戸庶民の山岳信仰』(1983・名著出版)
ふじこう【富士講】 国史大辞典
原始・古代以来の富士山信仰を背景に、江戸時代に成立した民衆宗教の一派。富士講開祖と称される長谷川角行(かくぎょう)は、戦国時代の修験系行者の一人で、「御身抜(おみぬき)」「おふせぎ」などの呪(まじない)を使い、江戸の市中で信者を集めた。十七世紀後半に至り、村上光清の派と、食行身禄(じきぎょうみろく)の派の両派に分かれ、それぞれ発展する。特に身禄派は従来の呪術的性格を脱却して、実践倫理を軸とした宗教思想を確立し、幅広く信者を集め富士講を拡大した。身禄行者は享保期の大飢饉や打ちこわしの最中に、「みろくの世」の到来を予言しながら、享保十八年(一七三三)富士山頂付近で入定し、その報が江戸に広まって身禄派が優勢となった。その後身禄の娘花から伊藤参行、小谷(こたに)三志と、身禄派は引き継がれ、実践道徳の教えが説かれ、三志は尊王思想をいだき「不二道」「不二孝」と称し社会活動を伴わせている。しかし一方では、民間信仰のなかの富士講は、加持祈祷を行い、病気治しをする現世利益の一面も保っていた。線香や護摩をたいて吉凶を占う「焚上げ」や「参明藤開山」の文字を記した護符を「おふせぎ」と称して用い、その霊験のあらたかなことで信者が倍増した。富士講ははじめ「同行」の名称でよばれていたが、宝暦七年(一七五七)以後富士講の名が一般的となった。・・・
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
-
- 日本史 (210 9版)
- 原始宗教.宗教民族学 (163 9版)
- 参考資料
- キーワード
-
- 山岳信仰
- 富士信仰
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000133430