レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2013年06月03日
- 登録日時
- 2013/07/31 00:30
- 更新日時
- 2013/07/31 10:52
- 管理番号
- 都留大-250019
- 質問
-
未解決
世説新語(せせつしんご:中国の説話集)に出てくる韋誕(いたん)の父、韋端(いたん)の生没年を知りたい。
- 回答
-
生没年についてはっきりとした記述はなかったが、以下の資料の記述よりから、生年をある程度推測することは可能かと思われる
『大漢和辞典』 『三国検索<http://sangoku.lib.net/>』 『三國志 (和刻本正史)』 『三国志全人名事典』
- 回答プロセス
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①『大漢和辞典』画数索引「韋」を探すと、韋端は「後漢、京兆の人」との記載あり。また、息子である韋誕については、「三国魏、京兆の人」との記載がある。後漢(西暦25~220年)の終わりから、魏(220~265年)の初めの辺りの人であると推測できる。
本学所蔵の百科事典、中国の人名事典があるかOPACにて確認した(キーワード:中国 人名 事典 など)
②本学所蔵の百科事典類には記載がなかった。
③本学が所蔵している中国の人名事典は少数(近現代のものを除き7冊)であったため、すべて画数索引にて確認してみたところ、『中国人名辞典』及び『支那人名辞典』に『大漢和辞典』とほぼ同じ説明が載っていた。
インターネットで「韋端」を検索した。
④『三国検索』<http://sangoku.lib.net/>において、「196年、涼州牧の韋端は司隷校尉の鍾とともに馬騰と韓遂の争いを仲裁した。」との記載がある。そのころには成人していた可能性が高い。また、その息子韋康(韋誕の兄)について、「父韋端が涼州牧から太僕になるとき、韋晃は涼州刺史となり、...(中略)...212年1月~8月の冀城包囲戦で馬超に殺害され...」との記載がある。212年に韋康が成人していたとすれば、父親である韋端の年齢は韋康の年齢+15~50歳位であるだろうと考えられる。
キーワードを三国志として、本学所蔵資料をOPACにて検索した。
⑤『三国検索』典拠として挙げられていた『正史三国志』を所蔵していたため、確認したところ、仲裁は建安の初めと記載されていた(建安元年は195年)。
⑥『三国志全人名事典』を所蔵していたため確認したところ、韋端が涼州牧として馬騰と韓遂を仲裁した記載(年代の記載なし)及び、息子韋康の没年212年の記載がある。(どちらも典拠として『魏・荀彧伝』が挙げられている)
以上、生没年についてはっきりとした記述はなかったが、①④⑤⑥の記載より、生年をある程度推測することは可能かと思われる(150~180年近辺であろうと推測)。
質問者は、正確な生没年が分からなくても構わないとのことだった。
- 事前調査事項
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質問者は事前に自分で『大漢和辞典』及び『ブリタニカ』を調べ、大漢和辞典には人物についての説明は載っていたものの、生没年の記載はなかったとのこと。
- NDC
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- 中国 (222 8版)
- 参考資料
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- 大漢和辞典 : 諸橋轍次著. 大修館書店, 1960 ; 26cm
- 中国人名辞典(上古~近世) : 難波常雄,早川純三郎,鈴木行三編. 日本図書, 1978. 1628,130p ; 22cm
- 支那人名辞典 : 早川純三郎,鈴木行三編. 啓文社, (1904). 1冊 内容別頁付 ; 22cm
- 「三国検索」<http://sangoku.lib.net/>(2013/07/30確認)
- 三國志 (和刻本正史): [陳寿撰 ; 裴松之集注 ; 陳仁錫評閲]. 汲古書院 (發行), 1972 2冊 ; 25cm
- 三国志全人名事典 : 『中国の思想』刊行委員会編著. 徳間書店, 1994.11. 443p ; 22cm
- キーワード
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- 中国--歴史--漢時代
- 三国志
- 世説新語
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介 事実調査
- 内容種別
- 人物
- 質問者区分
- 学生
- 登録番号
- 1000134806