レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2011/06/22
- 登録日時
- 2015/03/25 00:30
- 更新日時
- 2015/05/17 10:05
- 管理番号
- 6000004664
- 質問
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解決
豊中市の北条(きたじょう)という地名は、なぜこういう名前になったのかわかる本はあるか。
- 回答
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かつての大字名からついた地名だが、大字名の由来が明確に書かれた資料は発見できず。下記の資料をご覧いただいた。
『住居表示概要』(豊中市市民部住居表示課)p20「町名の由来について」には、北条町は旧大字名に町をつけて町名としたとある。
『創立百年‐豊中市立小曽根小学校』(豊中市立小曽根小学校)p3に、奈良時代に田んぼをくぎって、人々にあたえて耕作させたこと、(吹田市の)垂水の方から一条と数えていって、その北にあったのでこの名前が残されたようだとの記載がある。
『新修豊中市史 第1巻 通史1』(豊中市)p140-152「豊嶋郡の条里プラン」に、養老令の班田収受および養老7(723)年の三世一身法・天平15(743)年の墾田永年私財法等の簡単な解説と、班田収受が最初に実施されたのは白雉3(652)年だったこと等の記載あり。明治時代頃の地籍図等を参照し、豊中市内の当時の条里の配置について考察している。p144-147「条里地割の分布と形状」によると、条里地割は猪名川と天竺川流域の平野部に分布し、台地・丘陵部分には及んでいないとのこと。p146の図「豊中市域の条里復元図」を見ると、大字名北条のあたりより北には条里が及んでいないことがわかる。なお、大字北条のあたりを西に向かって斜行する地形が見られるが、これは「猪名の笹道」という古道が通っていた可能性があるとのこと。
『日本歴史地名大系 28 大阪府の地名1』(平凡社)p277「北条村(きたじょうむら)」には、小曽根村の枝郷で、寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳に村名が見えるとの記載があり。p275-276「小曽根村(おぞねむら)」によると、文治5(1189)年の春日社領垂水西牧榎坂郷田畠取帳(今西家文書)には小曽根村に北条は含まれず、榎坂村に属することになっているが、文永8(1271)年の源康綱畠田寄進状(勝尾寺文書)では十一条六里に属する北条地区も小曽根村域に入っているとのこと。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本 (291 9版)
- 日本史 (210 9版)
- 参考資料
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- 『創立百年』小曽根小学校職員一同/編集(豊中市立小曽根小学校)
- 『住居表示概要』豊中市土木部管理課/[編集](豊中市土木部管理課)
- 『新修豊中市史』第1巻 豊中市史編さん委員会/編集(豊中市)
- 『日本歴史地名大系』28‐[1](平凡社)
- キーワード
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- 北条(キタジョウ)
- 豊中市(トヨナカシ)
- 地名(チメイ)
- 由来(ユライ)
- 条里制(ジョウリセイ)
- 歴史(レキシ)
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 一般
- 登録番号
- 1000169781