レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2019年09月14日
- 登録日時
- 2019/09/14 13:15
- 更新日時
- 2021/03/26 12:09
- 管理番号
- 00084
- 質問
-
解決
安芸津町三津には、広島藩の「浦辺御蔵所」があったが、明治初年には「米穀集積市場」となった。両者にはどのような関係があったのか
- 回答
-
1 「浦辺御蔵所」と「米穀集積市場」との関係について
★【三浦仙三郎 その生と死】 阪田泰正/著 1975年
<p2>
「明治初年、納税が米納から銀納に改められた。このため米は純然たる商品となり三津御蔵所に納入
されていた米は三津商人の手に移り、三津村は米穀集積市場となり…」との記述あり
★【杜氏の里 安芸津】 安芸津町文化活動実行委員会/編 1983年
<p24>にも同上の記述あり
★【安芸津風土記 第21号】 阪田泰正/編 1975年
<p29~38>
「税法改正の結果、御蔵所が明治8年廃止せられると共に埋立てられて東小学校の敷地となった。そ
して旧殿堀の埋立てられた後、新たに近村諸村より寄附金を募集して旧町役場裏手に新殿堀が掘ら
れた」(賀茂郡志)との記述あり
★【松尾城物語(郷土シリーズ・第1集)】 阪田泰正/著 1977年
<p45>
「当時、御蔵所に使用せられた土地は合計三段一畝歩でその中、四畝六歩は48カ村の共有地であっ
た。而して、他の土地及び建物は何れも三津村のものであったが、明治8年11月の地租改正の時ま
で使用せられ、その後は土地建物共売却せられた。」(竹原市史 第2巻)との記述あり
○このことから、明治になり税法が変わり、年貢(米)からお金で収めるようになったため、藩が管理する年貢米のための米蔵(三津御蔵所=浦辺御蔵所)は不要になり、三津村は単なる商品としての米を置いておく米穀集積市場としてしばらくは機能したようです。その後、明治8年11月には売却され小学校の敷地となったようです。
- 回答プロセス
-
安芸津町のことであったため、安芸津町史および安芸津関連の郷土史から調査開始。
- 事前調査事項
- NDC
-
- 中国地方 (217)
- 日本 (291)
- 参考資料
-
- 阪田泰正. 三浦仙三郎 その生と死. 1975年. p. 2 (当館請求記号 K289サカ)
- 安芸津町文化活動実行委員会. 杜氏の里安芸津. 1983. p. 24 (当館請求記号 H21サ)
- 阪田泰正. 安芸津風土記(第21号). 1975. p. 29~38 (当館請求記号 K291アキ)
-
阪田泰正 著 , 阪田, 泰正, 1913-1989. 松尾城物語. 安芸津記念病院郷土資料室, 1977. (郷土シリーズ ; 第1集)
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001332258-00 (K291サカ)
- キーワード
-
- 酒造
- 浦辺御蔵所
- 三津の酒造
- 三津御蔵所
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000261391