レファレンス事例詳細(Detail of reference example)
提供館 (Library) | 蒲郡市立図書館 (2310237) | 管理番号 (Control number) | 蒲郡-2015-10171-A | ||||||||||||||||||
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事例作成日 (Creation date) | 2015年10月17日 | 登録日時 (Registration date) | 2015年11月06日 14時22分 | 更新日時 (Last update) | 2015年11月08日 10時13分 | ||||||||||||||||
質問 (Question) | ①明治期の宝飯地区において、以下の人物の概要が知りたい。 巨勢(こせ)大隅守(おおすみのかみ)利光、通称鎌吉。宝飯方面を知行所とした旗本。『柳営補任』に名前が載っている。形原に陣屋があったらしい。 ②同地区にて大隅守に叙任された人物についての概要。 | ||||||||||||||||||||
回答 (Answer) | ①『蒲郡市史 本文編2』P210より「形原・西浦・戸金領主巨勢氏」の項があり、「次の利光は、先手鉄砲頭、小姓組番頭を勤め、大隅守に叙任された。この利光の時、明治維新を迎えた。」との記述があった。 また、同『蒲郡市史 本文編2』に、「形原役所記録」という、巨勢氏形原領の江戸時代後期の陣屋記録が残っているという記述がある。全九冊。形原陣屋の記録としては、別に文久三年の日記もある。この文書について詳しくお知りになりたいときは、直接、蒲郡市博物館まで問い合わせしていただくよう、連絡先を紹介。 『蒲郡市誌』p248より「幕末の陣屋と知行高」の項にて、各領主の知行石高が載っており、「巨勢大隅守領 形原859石 西浦679石 戸金30石」とあった。p249には旗本の陣屋についての記述があり、「形原陣屋の巨勢氏が5000石となっている。」との記述だった。p252より「形原巨勢家」という項で家系の解説と、「文久2年巨勢氏知行所村々概況」として、知行村についての詳しい状況が表で掲載されている。その中で大隅守については、「7代 鎌吉(けんきち)大隅守 嘉永4年(1851)交替寄合、駿河加番役」という記述だった。 ②郷土史の大隅守については、『寛永諸家系図伝 索引2』「国名索引」p9より大隅守の役についていた人物を見てみると、三河、とくに宝飯郡に関係の深い人物は「鵜殿長次(うどのながつぐ)」のみ。『寛永諸家系図伝 第14』p243には、「大隅守 台徳(秀忠)院殿につかへたてまつり、大御番の組頭となる。法名日慶(にっけい)。」とあった。『蒲郡市史 本文編1』などの記述より、鵜殿長次についての概要を説明。 | ||||||||||||||||||||
回答プロセス (Answering process) | ①1.まず形原に陣屋があったということなので、『蒲郡の諸城』を見てみると、p62より「形原陣屋A(形原役所) 享保三年(1718)に陣屋を構えた巨勢至信は、紀州家の家臣でした。宝飯郡内で千石を知行し、享保九年(1724)には千石を加増されています。(中略)寛政年間(1789~1800)には小林鶴之進、文政年間(1818~1829)には吉見都助らが歴任して明治に至っています。」との記述があった。 2.『蒲郡市史 本文編2』を索引より見てみると、P210より「形原・西浦・戸金領主巨勢氏」の項があり、「次の利光は、先手鉄砲頭、小姓組番頭を勤め、大隅守に叙任された。この利光の時、明治維新を迎えた。」との記述があった。 また、同『蒲郡市史 本文編2』に、「形原役所記録」という、巨勢氏形原領の江戸時代後期の陣屋記録が残っているという記述がある。全九冊。形原陣屋の記録としては、別に文久三年の日記もあるとのこと。 3.『蒲郡市誌』も索引より、p248より「幕末の陣屋と知行高」、p249より旗本の陣屋についての記述、p252より「形原巨勢家」の項で家系の解説と、「文久2年巨勢氏知行所村々概況」として、知行村についての詳しい状況が表で掲載されていた。 4.蒲郡市博物館に問い合わせしてみる。巨勢氏について丁寧な説明があるのは、古い『蒲郡市誌』の方で、その内容を受け、またあらたに見つかった事実や参考文献などから書き直した記述が『蒲郡市史 本文編2』であるという説明があった。また、「形原役所記録」については、博物館で保管しているとのこと。ただ、古文書の類となるので、一般の方が一読できるものではないということだった。この文書について詳しくお知りになりたいときは、直接、蒲郡市博物館まで問い合わせていただくことにし、連絡先をお伝えした。 5.『角川日本姓氏歴史人物大辞典 23 愛知県』p725には「巨勢(こせ) 江戸期に三河に釆地を有した旗本に巨勢氏がある。(中略)以後、子の利和から伝えて、明治期に至った。(桜井村史)。」とあった。参考文献として上がっている『桜井村史』は、当館は所蔵しておらず、内容の確認はできなかった。愛知県図書館ほか所蔵している図書館を案内した。 6.『寛政重修諸家譜 第20』p351にて巨勢氏の系図を見たところ、利和までの図で、その後の確認はできなかった。 ②1.『寛永諸家系図伝 索引2』』「国名索引」p9より大隅守の項に名前の掲載されていた人物を『寛永諸家系図伝』にて見てみるが、三河、とくに宝飯地方に関係の深い人物は「鵜殿長次(うどのながつぐ)」のみ。『寛永諸家系図伝 第14』p243には、「大隅守 台徳(秀忠)院殿につかへたてまつり、大御番の組頭となる。法名日慶(にっけい)。」とあった。 2.『蒲郡市史 本文編1 原始・古代・中世』、『家康の族葉』、『鵜殿家史 第1分冊』や過去の事例より、「鵜殿家は戦国時代、三河地方を治めていました。今川義元氏と深い縁戚関係にあり、今川家臣団でも三河地区を治めるための重要な家臣であった。長善に始まり、長将、長持、長照、氏長と続いていった惣領であるこの筋は、居城の名のまま、上ノ郷鵜殿と称された。この総領筋が、上ノ郷城で元康(後の家康)と合戦を行なっています。 そのほかに、鵜殿氏には3つの分家があり、それぞれ居城にちなみ、下ノ郷鵜殿、不相(ふそう)鵜殿、柏原(かしわばら)鵜殿と称された。 長次は、柏原鵜殿の二代目で、妹は家康の側室となった西郡局。」という概要を説明した。 | ||||||||||||||||||||
事前調査事項 (Preliminary research) | 『柳営補任』にて、巨勢大隅守についての名前、それまでに就いていた官職、知行所が形原であったことなどをお調べになっていた。 | ||||||||||||||||||||
NDC |
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参考資料 (Reference materials) |
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キーワード (Keywords) |
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照会先 (Institution or person inquired for advice) |
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寄与者 (Contributor) | |||||||||||||||||||||
備考 (Notes) | |||||||||||||||||||||
調査種別 (Type of search) | 文献紹介 事実調査 書誌的事項調査 所蔵調査 所蔵機関調査 | 内容種別 (Type of subject) | 郷土 | 質問者区分 (Category of questioner) | 社会人 | ||||||||||||||||
登録番号 (Registration number) | 1000183314 | 解決/未解決 (Resolved / Unresolved) | 解決 |