レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2016年10月9日
- 登録日時
- 2016/10/15 12:49
- 更新日時
- 2017/06/18 12:12
- 管理番号
- 蒲郡-2016-10091-A
- 質問
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解決
三谷町の住所に「一舗(いっぽ)」「二舗(にほ)」とあるが、これは弘法大師が「一歩」「二歩」と歩いたところから付けられたと聞いたが、その出典となる話がのっている資料はあるか。
- 回答
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なし。
一舗から十舗は明治時代の地租改正によってつけられた字名なので、弘法大師とは関係ないと思われる。
- 回答プロセス
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1.郷土資料室より、『三谷町誌2 続・今昔の三谷』を見ると、p13-14に「一舗から十舗は、明治時代の地租改正に伴い、新たに当時の市街地を割りふったのであり、近世以来の『東新屋・上げ・松葉・中浜・中屋敷・西新屋』六区画を十に分けてできたものである。」とあった。
2.『三谷町誌2 続・今昔の三谷』p13に挙げられていた参考資料に『地名読み物 わが町シリーズ』があり、そちらも当館に所蔵があったため、内容を確認すると、「(一舗~十舗)近世以来の『東新屋・上げ・松葉・中浜・中屋敷・西新屋』の六区画を十分した。」とある。
そのあと
「(東新屋=東区。一舗周辺)アラヤ=新立の集落・耕地。」、
「(上げ=上区。三~四舗周辺)アゲ=台風や高潮、氾濫など水害の及ばない所。」、
「(松葉=松区。二舗周辺)マツバ=祭神降臨地「松場」の転で近世三谷祭発祥の地。」、
「(中浜=中区。五~六舗周辺)硯川の扇状地で三谷浜の中心部。漁師、船頭など海の生活者が多かった。」、
「(中屋敷=北区。七~八舗周辺)中世のころか、港が御馬の入江から現在地に移り、支配者が屋敷を構えた。」、
「(西新屋=西区。八~十舗周辺)新立事情は東新屋に同じ。古代須田から西田川鉄橋北は入江で御馬(船着場)があった。」、
と、それぞれの区画の由来が書かれていたが、どれにも弘法大師についての記述は見つからない。
3.『三谷祭 愛知県蒲郡市三谷町《蒲郡市無形民俗文化財》』前編p1に「明治6年の地租改正以降の『一舗』『二舗』という言い方以前は、『一番戸(いちばんこ)』『二番戸(にばんこ)』というような、『番戸』の言い方をしていた。」とあった。
4.蒲郡市博物館に問い合わせてみても、それらしい情報はみつからなかった。
5.以上のことを利用者にお伝えした。
- 事前調査事項
- NDC
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- 中部地方 (215 9版)
- 参考資料
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- 続・今昔の三谷,三谷町誌編纂業実行委員会∥編集,三谷町(蒲郡市),三谷町誌編纂業実行委員会,2007.11,276p,22cm,三谷町誌,2
- 三谷祭,愛知県蒲郡市三谷町《蒲郡市無形民俗文化財》,前編,竹内尚武∥著,豊川,大林印刷,1996.10
- 地名読みものわが町シリーズ,小林 良樹∥著,蒲郡,蒲郡公民館,2012.3
- キーワード
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- 弘法大師
- 三谷町
- 字名
- 由来
- 一舗
- 二舗
- 一歩
- 二歩
- 照会先
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- 蒲郡市博物館 〒443-0035 蒲郡市栄町10-22
代表Tel:0533-68-1881 Fax:0533-68-1880 ホームページ:http://www.city.gamagori.lg.jp/site/museum/(2016.10.15確認)
- 蒲郡市博物館 〒443-0035 蒲郡市栄町10-22
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査 所蔵調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000198186