レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2015年2月21日
- 登録日時
- 2015/10/05 00:30
- 更新日時
- 2016/11/30 17:33
- 管理番号
- 2015015
- 質問
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解決
鍛冶屋原線について知りたい。
- 回答
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太平洋戦争中の昭和18年に一時廃線となったが、昭和22年7月15日に復活した。
沿線はもとより土成や吉野町の通勤・通学者にもよく利用されていたが、自動車の普及などによって利用者が減少し、昭和47年1月15日をもって再度廃線となった。
- 回答プロセス
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『徳島県百科事典』で鍛冶屋原は板野郡上板町の南西部であることを確認。(p254)
『板野町史』 板野町/p1133
戦時中にレールを撤去し、代わって国鉄バスが運行していたが、戦後、関係地区民の強い要望と度々の陳情によって、昭和22年7月15日に復活し、再び鉄路が敷設された。
昭和30年、板野町が誕生し、鉄道側も板西駅を板野駅と改称した。復活後の鍛冶屋原線は、利用者が段々減少して、昭和41年度の営業係数100円の収入に対する投資額は511円で、四国で廃止対象路線となっている赤字七線のうちでもっとも成績が悪かった。
同線に並行して、徳島バスが一日41往復走っているので、乗客はバスに奪われがちで、犬伏駅は無人化された。全長6.9㎞に一日、ディーゼルカーがわずか12往復しか走らない。42年度収支で約5,000万円の赤字を出しており、赤字ローカル線の廃止勧告が出された。
『鳴門・板野今昔写真帖』 郷土出版社/p120
鍛冶屋原線は太平洋戦争中の昭和18年に一時廃線となり、国鉄バスが代用運行されていた。戦後の復線運動が実り、同22年に復活した。沿線はもとより土成や吉野町の通勤・通学者にもよく利用されていた。しかし自動車の普及などにより、地元の活発な反対運動も実を結ぶことなく同47年1月15日をもって再度廃線となった。
徳島新聞2010年11月14日に特集記事がある。
インターネットで調べたところ、上板町歴史民俗資料館に客車と駅名票が展示されているとあった。
- 事前調査事項
- NDC
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- 鉄道運輸 (686 9版)
- 参考資料
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板野町史編集委員会/編 , 板野町史編集委員会. 板野町史. 板野町役場, 1972.
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I012768594-00 -
三好昭一郎 監修 , 三好, 昭一郎, 1929-. 鳴門・板野今昔写真帖 : 保存版. 郷土出版社, 2009.
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000010582078-00 , ISBN 9784863750401 -
徳島新聞社調査事業局 編 , 徳島新聞社. 徳島県百科事典. 徳島新聞社, 1981.
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001629884-00
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板野町史編集委員会/編 , 板野町史編集委員会. 板野町史. 板野町役場, 1972.
- キーワード
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- 鍛冶屋原線
- 鉄道
- 板野町
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000182059