レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2019年11月09日
- 登録日時
- 2019/11/09 19:33
- 更新日時
- 2019/11/12 21:05
- 管理番号
- いわき総合-地域603
- 質問
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勿来のトンネル(県境)のところにある切通し峠は何の為に作ったのか
また、篠原和泉が、いわきと何か交流があったのか
- 回答
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勿来切通が何のために作られたのかについては、「いわき市勿来地区地域史 1」 第2章第3節 交通網の整備と街の発展 1 街の発展を促した陸上交通 1-(2)浜街道を往く ア 奈古曽切り通し イ 平潟洞門(p194~197)に記述がある。
これによると、浜街道が神岡-平潟、平潟-九面の両側で急坂となり、交通の難所になっていたことを解消すべく、まず慶長年間(1596-1615)に、神岡新町の豪商・篠原和泉が神岡-粟野-九面の短絡路を敷設するための、国境に横たわる標高50mの頂上付近に洞門を貫通させた。ところが、洞門は狭く、参勤交代の際に持つ槍がつかえてしまうことから、承応元年(1652)、関本村福田の庄屋・酒井平左衛門が洞門を崩し、切り通したとある。
「新編常陸国誌 巻6」 「関梁」【奈古曾関、奈古曾三字以音】に、「…新道ヲ開キシ始ハ、慶長年中新町ノ富民篠原和泉ト伝フ者アリ、家業ノ便ナラン為ニ、岩山を鑿テ洞道ヲ作リ往来ス、行人漸ク多ク、後ニハ士大夫ト云エドモココヲ往還シテ、大道ノ如クナレリ、サレバ刀槍ノ障ナカラン為ニ、承應元年ノ比新町ノ庄屋酒井平左衛門ト云フ者、官ニ請テ山頂マデ斫通シテ、大道トス、コレ今ノ地ナリ、…」
篠原和泉がいわきと何か交流があったのか について、現地の看板に、「奥州(福島県いわき市側)の商人と申し合わせ」と記されているが、「いわき市勿来地区地域史」では言及されていない。
- 回答プロセス
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・「いわき市史 第2巻」「北茨城市史 上」「いわきの街道をゆく」(蛭田耕一著)にあたるが、関連する記述は見つけられなかった。
・「いわき市勿来地区地域史 1」で、切通の完成までの経緯がわかった。篠原和泉と関係のあった人物については言及されていない。
・Google「勿来切通 篠原和泉」で検索し、現地の画像、地図、資料を調査してまとめた解説文が掲載されているサイトで、参考資料としてあげられた「新編常陸国誌」から「切通」に関する記述を探した。
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本 (291)
- 東北地方 (212)
- 関東地方 (213)
- 参考資料
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- いわき市勿来地区地域史編さん委員会. いわき市勿来地区地域史1自然環境/原始~古代~中世~近世/民話. いわき市勿来地区地域史編さん委員会, 2012. p. 194~197
- 中山信名、新編常陸国誌.宮崎報恩会, 1969
- キーワード
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- 勿来切通
- 奈古曽切通
- 浜街道
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000264983