レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2015年08月04日
- 登録日時
- 2015/10/30 10:43
- 更新日時
- 2015/10/30 10:43
- 管理番号
- 相-150009
- 質問
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解決
ヘボン(明治期に来日した宣教師)の夫人のクララ・メアリ・リートが、横浜の山手で西洋野菜を作っていたかどうかを調べてほしい。
- 回答
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ヘボン夫人(クララ・メアリ・リート)は居留地三十九番地(現在の山下町)の家で生活していた際に、庭で西洋野菜を栽培していたことが、以下の資料からわかります。
『ヘボンの手紙』ジェイムズ・カ-チス・ヘボン著、高谷道男訳 有隣堂 1976<289.3H / 459>(10548816)に、ヘボン夫妻が居留地三十九番地の家で生活した頃の様子が記されており(p79-153 「Ⅳ 居留地時代」)、p86-87には、クララが義妹のアンナに宛てた手紙(1864年4月4日付け)の抜粋が掲載されています。その中に「わたしの花壇はいつも変わらぬ慰安であり、仕事の源泉です。(中略)庭畑には、とうもろこし、砂糖大根、トマト、セロリ、いんげん、えんどう、辛し菜、玉ねぎ、レタス、その他多くの野菜類を植えています。ある婦人から二十六種の草花の種をいただき、オールコック夫人からは先週百十一種類の種をいただきました。」とあります。
なお、p241には、居留地三十九番地が現在の山下町であることが記載されています。
このほかにクララの手紙の内容や、生活の様子等が紹介されている資料としては以下のようなものがあります。
『トマトが野菜になった日』橘みのり著 草思社 1999 <626.27JJ / 1>( 21241955 )
p192に「日本でトマトの栽培が行われた古い記録は、日本人による栽培ではなく、ヘボン夫人(ヘボン式ローマ字の創始者の夫人)が、文久2(1862)年に横浜の居留地につくった自家菜園で、トマト、レタス、セロリなど多くの種類の西洋野菜や西洋果実をつくって収穫したという記録だ」と記載があります。この資料は『横浜の食文化』横浜市教育委員会 1992
p53の記述を典拠にしていますが、『横浜の食文化』が典拠としているのは、やはり1864年のクララが義妹のアンナに宛てた手紙です。
『心の旅路 よこはまかながわ』有隣堂出版部編 有隣堂 1992 <914.6BB/330>(20532693)
p221「最後に居留地三十九番のヘボン塾がどんなであったか、クララ夫人の手紙によると、花壇があり菜園もあり芝生もあったらしい。」
『ヘボンの生涯と日本語』望月洋子著 新潮社 1987 <289.3/ 823a >(22593693)
p97「その中でクララは、慣れぬ鍬をふるって、日本では手に入らない玉ネギ・トマト・コーン等を栽培し、苺や桃や柑橘類のジャム、食後のパイに至るまで、全て手作りで夫を楽しませてきた。」
p110「夫の好物を手に入れるために、西洋野菜の種苗をオルコックにもらって育てるなど、この時代のアメリカ女性の美徳をそなえていた。」
『宣教医ヘボン ローマ字・和英辞書・翻訳聖書のパイオニア』横浜開港資料館[ほか]編 横浜市ふるさと歴史財団 2013 <K28.1/ 587> (60628419)
p18に「ヘボン夫人クララからアンナへの書簡」が掲載されており、その解説文に「(略)またクララにとっては、花壇に咲く花や苺畑などの家庭菜園が、生活のなかでの楽しみと慰めだと記している」とあります。
- 回答プロセス
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①インターネット上に『トマトが野菜になった日』橋みのり著 草思社 1999 <626.27JJ / 1>( 21241955 )に関する情報(個人ブログ)が掲載されており、「日本では、文久2(1862)年に、横浜の居留地で、ヘボン夫人(ヘボン式ローマ字の創始者の夫人)が、自家菜園にトマト、レタス、セロリなど多種の西洋野菜や西洋果実を作って収穫したという記録があるそうです。(p.192)」とある。同著は貸出中のため、現物を確認することは出来ず。→後日確認 『横浜の食文化』横浜市教育委員会 1992 p53を典拠としている。(かながわ資料室所蔵 <K59.1/7 常置>
②ヘボン夫人についての資料は見いだせなかったので、ヘボンについての当館所蔵資料のうち、来日後の生活に関する記載部分を確認。
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本史 (210 9版)
- 蔬菜園芸 (626 9版)
- 参考資料
- キーワード
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- 西洋野菜
- 家庭菜園
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 内容種別
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000183066