レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2017年11月10日
- 登録日時
- 2018/02/02 16:14
- 更新日時
- 2019/06/27 13:24
- 管理番号
- 島根郷2017-11-003
- 質問
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解決
松江市役所前の公園に、松江藩の儒学者であった内村鱸香の碑がありますが、その石碑やそれを建てた顕彰会について知りたいです。
- 回答
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当館所蔵資料より、下記の資料を紹介し回答。
資料1:巻頭に碑文の全文を載せる。
明治35年(1902)8月、文は重野安繹、書は日下部東作となっている。
「緒言」に、「去る本年五月廿二日は、内村先生の命日に相当するを以て、大正十五年六月既に松江市北埋立地遊園地内に建設せられたる内村先生碑前に於て、松江市主催の下に、先生の事績顕彰会の計画ありしも、軍国多事の際、種々の支障ありて遂に延期の止むなきに至れり」とある。ここの「本年」とは昭和13年。これより、碑文は明治35年に作成、石碑の建立は大正15年6月とわかる。
「凡例」に、石碑について詳しく記述あり。高さ7尺1寸、幅4尺、石は仙台石。題額は松平直亮(松江松平家当主)の筆、碑銘は重野成齋、筆者は日下部鳴鶴。石碑は東京で製作され、海路で松江へ輸送された、とある。
資料2:碑について書かれた小冊子。
碑文の大意や碑文の漢字配置を載せる。「『内村先生碑』の制作者及び設置場所について」では、碑文の題額(松平直亮)、撰文(重野安繹)、書筆(日下部東作)、刻字(井亀泉)のことを解説し、設置場所及び場所の変遷についても書かれている。
また、碑文は鱸香逝去の翌年(明治35年)に重野が来県して起草し、同年年9月2日付「山陰新聞」で発表された。
資料3:第16巻第3号(昭和14年3月)p12-39に内村鱸香についての複数の記事あり。
p34-35「勤王儒者内村鱸香先生顕彰会」(一記者)では、昭和13年11月12日に松江市公会堂で顕彰会を開催したことを伝える。松江市助役・福田源次郎が司会をつとめ、講師に錦織雄太郎、桜井文三郎、また内村家から当主・唯三郎氏が出席した。p12-23「内村鱸香先生に就て」(錦織雄太郎)は講演内容と思われる。その冒頭部分で、前年に錦織が上京し若槻礼次郎に会った際、若槻から先年に石碑が建てられたはずだが、顕彰方法はどのようになっているのか、と問われた。顕彰のことが進んでいないことを答えると、若槻から、このことは在郷の人々が努力すべきである、陳情や請願が必要ならば自分はいつでも署名すると督励された、とあり。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 個人伝記 (289 8版)
- 参考資料
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【資料1】桑原羊次郎 編 , 桑原羊次郎. 内村鱸香先生 : 勤王儒者. 鱸香先生顯彰会, 1939.
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I069466321-00 (当館請求記号 092.8D/53 ※貸出禁止資料) -
【資料2】城西ふるさと楽会 , 城西ふるさと楽会. 内村鱸香とその碑. 城西ふるさと楽会, 2009.
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I069364570-00 (当館請求記号 092.8D/1592 ※貸出禁止資料) -
島根評論 第16巻上(第1号~第4号) 複写. 島根評論社, 1939.
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I069352446-00 (当館請求記号 C2/2140/35 ※貸出禁止資料)
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【資料1】桑原羊次郎 編 , 桑原羊次郎. 内村鱸香先生 : 勤王儒者. 鱸香先生顯彰会, 1939.
- キーワード
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- 内村鱸香
- 石碑
- 松江市
- 儒学者
- 相長舎
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 内村鱸香(うちむら・ろこう)1821-1901。本名は友輔。松江の商家に生まれるが、幼時より読書を好み、弘化元年(1844)に大坂へ遊学、嘉永4年(1851)には江戸の昌平黌に学ぶ。元治元年(1864)より藩校で儒学を講じる。明治7年(1874)から松江市西茶町に私塾・相長舎を開き、また中学校や教員伝習校で教師となる(のち退職)。退職後は相長舎を引き続き経営し、門人3000人といわれる山陰第一の家塾となった。この中からは梅謙次郎、長谷川辰之助(二葉亭四迷)、若槻礼次郎、岸清一などを輩出した。(参考資料:島根県歴史人物事典)
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000229829