レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2020年08月07日
- 登録日時
- 2020/09/02 16:46
- 更新日時
- 2020/10/07 11:21
- 管理番号
- 2020-22
- 質問
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解決
伊予の河野氏や村上家が豊後の大友氏と1550年前後に提携したことを示す資料などはあるか。
- 回答
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【資料1】p610-611には、1542年頃河野氏に起こった家督争いについて「幕府も関心をよせたとみえて、同年七月には、「河野父子」を和解させるよう、豊後の大名大友義鑑に命じている(大友家文書録・一七二二・一七二五)」とある。
またp666に「天文 元年(一五三二)七月、大友義鑑は、安芸の熊谷民部少輔に書状を送ったが、このなかで大内氏討伐のため、豊前・筑前への発向の決意をのべ、武田・尼子両氏との提携からさらに海上警固を河野通直・宇都宮・村上宮内大輔に依頼している(熊谷家文書・一六六五)」とある。p673には、大友氏が「義鑑の時代に娘を土佐の一条房冬、河野通宣にそれぞれ嫁せしめ、さらに北九州に進出しようとする周防・長門の大内氏と対峙した」とある。
【資料2】p128に「1530(享禄3・庚寅) 11―2 足利義晴、河野通直に命じて大友義鑑とともに細川晴元方の阿讃の兵を追討させる〔閥閲録〕。」、p130に「1542(天文11・壬寅) 7―2 幕府、大友義鑑に命じて河野通直とその子晴通との不和を和睦させる〔大友家文書録〕。」との記述がある。
【資料3】p924、940-941に【資料1】の記述に関連した資料が載っている。
【資料4】第149号p1~7、21に「大友氏と河野氏及び伊予海賊との関係について」(長山 源雄)という論文が載っている。
【資料5】p204に細川晴元が三好氏の兵と共に河内国の幕府料所を侵略した件について、「将軍足利義晴は御内書を通直に送り、大友義鑑と相談し、その協力によって料所の奪還をするように命じている」とある。また、p206に「『南海通記』によると、河野氏は大内氏との外交関係を断絶して、九州の大友氏との提携を策した」とある。
- 回答プロセス
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【資料1】を確認後、蔵書データベースで「大友」「河野」等のキーワードで検索を行った。
- 事前調査事項
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『室町戦国日本の覇者 大内氏の世界をさぐる』(大内氏歴史文化研究会編 勉誠出版 2019)によると、p198 戦国期の大内氏は、出雲尼子・安芸武田・伊予河野・豊後大友氏を始めとする近隣の守護・領主との間で対立抗争を繰り広げ、しかもそれが相互に連動し、かつ中央政局ともリンクしていた。中略 また、大友氏が尼子・武田・河野氏らによびかけた反大内氏同盟は、足利義晴による帰京支援要請を背景に成立したものであったとある。
『山陰・山陽の戦国史 (地域から見た戦国150年 7)』(渡邊大門著 ミネルヴァ書房 2019)によると、大内義隆が滅亡後、大友氏は安芸の毛利氏や伊予河野家とてを結んで大内義隆を討ち取った陶隆房の包囲網を作ったとある。
出典:『大内義隆 (ミネルヴァ日本評伝選)』(藤井崇著 ミネルヴァ書房 2019)
- NDC
- 参考資料
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- 【資料1】『愛媛県史 古代Ⅱ・中世』(愛媛県史編さん委員会 1984)<当館請求記号:K200-31>
- 【資料2】『愛媛県史 年表』(愛媛県史編さん委員会 1989)<当館請求記号:K200-31>
- 【資料3】『愛媛県史 資料編 古代・中世』(愛媛県史編さん委員会 1983)<当館請求記号:K200-31>
- 【資料4】『伊予史談 第149号~第151号』(愛媛県立図書館 1998)<当館請求記号:K200-1>
- 【資料5】『河野氏の研究』(景浦 勉著 伊予史料集成刊行会 1991)<当館請求記号:K288.3-コウ-1991>
- キーワード
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- 河野氏
- 村上家
- 大友氏
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 所蔵調査
- 内容種別
- 郷土 人物
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000286651