レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2022年05月21日
- 登録日時
- 2023/03/01 13:36
- 更新日時
- 2023/03/03 13:55
- 管理番号
- 福参-1199
- 質問
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解決
年貢について、平安時代と江戸時代の百姓の取り分(収入)がどれくらいあったのか知りたい。
- 回答
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【平安時代】
◆参考資料1『図説日本庶民生活史』2
p.75-76「(前略)当時の収穫高、年貢高、年貢負担率は、一定していたわけではなく、場所によってちがう。しかし、当時は、一段からだいたい一石五斗ないし二石の収穫があり、年貢高はときに段別一斗程度から一石に及ぶものもあったが、ふつうは四斗(四斗代(とだい)という)ないし七斗程度であった。したがって収穫の三割から五割が上納されていたことになる。(中略)作人と荘園領主の間に、地主(名主・私領主など)が介在している場合、作人は地主にたいして加地子(かじし)と称する作徳米(さくとくまい)を支払わねばならなかった。加地子の量および本年貢との割合も、一律には論じられないが、加地子の負担は、本年貢よりも重いことが多かった。(中略)作人の実際の取分は六斗三升五合、すなわち全収穫の四割強に過ぎない。もし作人職(しき)(作人としての耕作権)をもつものの下にいる下作人(げさくにん)の場合であれば、年貢・加地子を負担するほかに、作人にはらう作職(さくしき)分をも負担しなければならないから、本人のところには、全収穫の二割以下しか残らない。(以下略)」の記述あり。
【江戸時代】
◆参考資料2『ビジュアル・ワイド江戸時代館』
p.260-261「年貢率については、一般に*五公五民とか四公六民という数字が知られているが、実際はこれを下回っていたようだ。たとえば江戸周辺の村々では、江戸城への物資上納などの特別な負担があるため、年貢率自体は三五%におさえられ、また幕府財政が悪化した正徳(しょうとく)年間には、全国平均で二八・九%まで年貢率が落ち込んだという。」の記述あり。
p.261「*五公五民 収穫に対する年貢と農民の取り分との割合を示したもので、五公五民は両者を折半すること、四公六民は領主が四〇%を年貢としてとり、残る六〇%を農民の取得分とする、という意味である。」の記述あり。
◆参考資料3『江戸時代の農民』
p.193「(前略)幕府の税率は享保年間までは四公六民であったが、享保十年に六公四民とした。しかし、これについては農民が難渋するむねを主張したので、享保十三年から五公五民となった。(以下略)」の記述あり。
- 回答プロセス
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キーワード「江戸 生活史」等にて自館検索および関連書架をブラウジング。
①参考図書で調べる。
参考資料1が見つかる。
②一般図書で調べる。
参考資料2-3が見つかる。
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本史 (210 10版)
- 参考資料
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- 1.図説日本庶民生活史 2/奈良本 辰也/[ほか]編集/河出書房新社/1961/380/8/10-2 (p.75-76)
- 2.ビジュアル・ワイド江戸時代館/第2版/小学館/2013.7/210/5R/410 (p.260-261)
- 3.江戸時代の農民/安藤 精一/著/至文堂/1966/210/08/S18-21 (p.193)
- キーワード
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- 士農工商
- 年貢
- 生活史
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 一般
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000329484